和歌山県の田辺市立美術館さんから企画展のご案内を戴きました。

宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心

期 日 : 2014年4月19日(土)―6月22日(日)
会 場 : 
田辺市立美術館 和歌山県田辺市たきない町24-43
時 間 :  午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 600円(480円)( )内は20名様以上の団体 ※学生及び18歳未満の方は無料
休 館 : 毎週月曜日(ただし、5月5日は開館)・4月30日(水)・5月7日(水)
 
企画協力  NHKサービスセンター、アート・ベンチャー・オフィス ショウ
 
宮沢賢治の生涯は、1896(明治29)年から1933(昭和8)年までのわずか37年間の短いもので、そのほとんどを生まれ育った岩手県で過ごし、農業の指導を主とする「科学者(サイエンチスト)」として活動しました。
その一方で宗教や芸術についても深い思索を重ねていた宮沢賢治は、わきあがってくる自身の思想を詩や童話にして表現し、音楽や絵を描くことについても強い関心をもち続けました。
生前に発表された作品は限られたものでしたが、遺された原稿も理解者の尽力によって日の目を見、それらの作品は没後80年たった今も、私たちに感動をあたえ、人と自然との関係や、人の生き方について考えさせられるものとなっています。また宮沢賢治の作品に触発されて制作をおこなった後世の芸術家も少なくありません。
宮沢賢治の文学と、それにインスピレーションを受けて生まれた作品の世界とを、この展覧会によってご紹介したいと思います。
 
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昭和11年(1936)、光太郎が遺族の依頼で揮毫した「雨ニモマケズ」後半部分の書が展示されています。ここから筆跡を写し、花巻の羅須地人協会跡地に碑が建立されました。
 
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以前も書きましたが、後に昭和21年(1946)には、碑文に誤りがあるのを知った光太郎立ち会いの下、訂正されました。「野原ノ」のあとに「松ノ」が、「稲ノ束」の前に「ソノ」、「コワガラナクテモ」の前に「行ツテ」が抜けていた他、賢治が書いた仮名遣いとして「デクノバウ」は正しくは「デクノボー」です。これらは光太郎が碑面の行間に直接訂正を書き込み、石屋さんがその場で刻むという方法で訂正されました。
 
ところで「雨ニモマケズ」の一節で、一般に「ヒリノトキハナミダヲナガシ」とされている部分、元々賢治が手帳に書いた段階では「ヒリノトキハ」でした。
 
それが現在、一般には「ヒリ」と改変されています。光太郎による訂正の際にもここは直されませんでした。そのことの是非についてはここでは論じませんが、時折、「光太郎が勝手にその改変をした」という記述を見かけます。確かにこの書でも「ヒリ」になっています。これを根拠に、光太郎が「無神経な改竄の犯人」だと決めつけているのです。
 
しかし、光太郎の名誉のためにこれだけは書いておきますが、それは誤りです。光太郎は花巻の関係者から送られた原稿の通りに書いただけで、この改変には一切関わっていません。
 
四箇所の訂正も、光太郎には責任はありません。昭和31年(1956)、光太郎歿後すぐ刊行された佐藤勝治著「山荘の高村光太郎」から関連する部分を抜粋します。
 
 花巻にある宮澤賢治の雨ニモマケズの碑は本文の傍のところどころに、後からの書き入れがあって、ちょっと人にふしぎな感じをあたえます。石碑に後から書き入れ(彫り入れ)があるのはずいぶんめずらしいことでしょう。
 この詩を書いた高村先生が、思わず書き落しをやったために、後から書き込んだように見えます。
 それはこういう事情です。
 ある時私が先生に、桜(碑のある場所)の詩碑は、どうして詩の後半だけを、それも原文とは少し変えて彫り込んだのでしょうかとおききしました。
 先生は例のぎょっとした表情をなさいました。
「あれは違うんですか」
 全く意外だというように答えられました。
「僕は花巻の宮沢さんから送ってきた通りを書いたですよ。
 僕も詩の半分だけではおかしいと思って、その事は聞いてみたのですが、余り長いから前半を略したというので、そのまま書いたのです。
 (それ以外に)どこか違うんですか。」
 そこで私は、原文を口誦しながら、碑との違いを説明しました。先生は全く初耳だ、それはどうにかしなければならないと言われます。
「大体詩をなおすなどということはけしからぬ事です。何かのまちがいだろう」
 先生は憤然となさいました。
「花巻に行ってきいてみましょう」
 先生はこの事のためにわざわざ花巻へ出かけられたと思います。
 あの、省いた「松ノ」と「ソノ」という文字はあまりたびたび重なるので、宮沢清六氏の提案で、原文から取ることを関係者たちが決め、それを先生に送ったのだそうであります。
 先生は何も知らずに、送られてきた原稿を忠実に書かれたのであります。
 この事は余程先生は気になったものとみえて、間もなく、碑に書き入れをして来ましたよと言って、花巻から帰って来られたことがありました。
 だから桜の詩碑は、世界でもめずらしい書き入れがあるのであります。
 
というわけで、光太郎は「何も知らずに、送られてきた原稿を忠実に」書いたにすぎません。「大体詩をなおすなどということはけしからぬ事です」と言っている光太郎が、「ヒドリ」では意味がわからないから「ヒデリ」の間違いだろう、などと勝手に改竄することはありえません。くどいようですが、光太郎の名誉のために。
 
さて、この企画展、2年以上前から全国各地を巡回しています。当方、2年前に横浜のそごう美術館での開催時に観に行ってきました。
 
その時点では、その後の巡回は福島県のいわき市立美術館さんのみの予定でした。そこで、このブログにもそれ以上書かなかったのですが、おそらく好評だったため、巡回先が一気に増えました。途中で気づいたのですが、機を逸してしまい、紹介しませんでした。すみません。
 
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現在、日本橋の三井記念美術館さんにて開催中の「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」も、当初予定にプラスして巡回先が増えています。こういうことも往々にしてあるのですね。
 
「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」は、来月、田辺市立美術館さんでの巡回が終わると、次は鹿児島です。もしかするとさらに巡回先が増えるかも知れません。注意していたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月8日

昭和24年(1949)の今日、詩「女医になつた少女」を執筆しました。
 

   女医になつた少女
 
 おそろしい世情の四年をのりきつて
 少女はことし女子医専を卒業した。
 まだあどけない女医の雛(ひよこ)は背広を着て
 とほく岩手の山を訪ねてきた。001
 私の贈つたキユリイ夫人に読みふけつて
 知性の夢を青青と方眼紙に組みたてた
 けなげな少女は昔のままの顔をして
 やつぱり小さなシンデレラの靴をはいて
 山口山のゐろりに来て笑つた。
 私は人生の奥に居る。
 いつのまにか女医になつた少女の眼が
 烟るやうなその奥の老いたる人を検診する。
 少女はいふ、
 町のお医者もいいけれど
 人の世の不思議な理法がなほ知りたい、
 人の世の体温呼吸になほ触れたいと。
 狂瀾怒涛の世情の中で
 いま美しい女医になつた少女を見て
 私が触れたのはその真珠いろの体温呼吸だ。
 
この少女は細田明子さん。戦時中、光太郎が行きつけにしていた三河島のトンカツ屋・東方亭の娘さんです。
 
東方、昔の連翹忌で細田さんにお会いしたことがあります。今もお元気でしょうか。