GWということで、近場ではありますが、女房孝行に軽く出かけて参りました。行き先は銚子。当方は生活圏ですが、妻はめったに銚子まで足を伸ばしません。
まず市内中心部にある妙福寺さんというお寺に行きました。鎌倉時代開山の古刹。樹齢750年という藤の古木が有名で、ちょうど花の盛りです。龍が地に臥している姿に似ているという事で「臥龍の藤」と名付けられています。
昨日と今日、「藤まつり」なるイベントも開催中でした。東日本大震災被災者慰霊も兼ねており、境内でコンサートがあったり、神輿が出たりというイベントです。コンサートはパスしましたが、神輿にはちょうど行き会いました。
東日本大震災では、銚子でも津波に遭い、幸い、死者は出ませんでしたが、マリーナなどは甚大な被害を受けました。その後、観光客が激減、老舗のホテルが廃業に追い込まれたりしました。現在も家屋の修復等、まだまだです。
妙福寺さん、本堂では僧侶の方々や一般の皆さんも混じって、読経祈願がなされていました。本当に少しでも早い復興を望みます。
続いて近くにある浄国寺さんというお寺に。こちらには光太郎と交流のあった銚子出身の詩人、宮崎丈二の墓があります。以前から一度お参りしたいと思っていましたが、なかなか果たせず、初めての墓参でした。光太郎の代参のつもりで手を合わせてきました。
墓石に書かれているのは宮崎の自筆。「心月孤円」と読みます。道元禅師の言葉だそうです。
宮崎は明治30年(1897)、銚子の生まれ。生家は材木商や茶の輸出も手がけていたそうです。「丈二」という名は、父・清兵衛が、尊敬する合衆国初代大統領、ジョージ・ワシントンからとったとのこと。大正時代に中央大学、専修大学などに通いましたがともに中退。岸田劉生らの草土社に参加し、まず画家として名をなしました。
大正9年(1920)、千家元麿らと詩誌「詩」を創刊し、さらに同じく詩誌「太陽花」「河」を創刊。このころから光太郎との交流が始まります。「太陽花」「河」ともに光太郎も寄稿者の一人でした。
晩年、昭和40年(1965)に銚子に帰り、同45年(1970)に歿するまで銚子に住み、絵を描き、詩を書いていました。
銚子でも宮崎の名は忘れられつつあるようです。少し前までは市内の青少年文化会館というホールのロビーに、郷土の偉人ということで、宮崎のコーナーもあって、光太郎からの書簡なども展示されていたのですが、先月、同館に行ったところ、別の展示に変わってしまっていました。残念です。
さて、浄国寺さんを後にして、ぶらぶら歩きました。ヤマサ醤油の工場裏手の銚子電鉄仲ノ町駅付近では、ちょうど銚子電鉄に行き会いました。
かつて京王線で走っていた2000系という緑色の車両。当方、子供の頃に東京多摩地域に住んでいた時期があり、よくこのタイプの緑の車両に乗りました。
意外と乗客も多く、妙福寺さんの藤まつりもだいぶにぎわっていましたし、行き帰りの国道356号もけっこう混雑していました。観光客の皆さんの客足も戻りつつあるようで、何よりです。
「藤まつり」は終わりましたが、まだまだ妙福寺さんの藤は花盛りです。しばらくは夜間のライトアップもあるそうです。ぜひ足をお運びください。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月4日
昭和12年(1937)の今日、詩人の中原綾子に宛てて手紙を書きました。
かつて中原に対しては、ゼームス坂病院入院前の智恵子の病状を細かく記した書簡を送っています。77年前の今日の手紙は、中原が小野俊一(かのオノ・ヨーコの伯父)と再婚したことに対するお祝いのメッセージでした。