一昨日、東京国立博物館で光雲作「老猿」、光太郎作「老人の首」を観た後、日本橋の三井記念美術館さんに行きました。こちらでは「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」が開催中です。
 
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上記はチラシですが、ここにあるとおり、「七宝」「金工」「漆工」「薩摩」「刀装具」「自在」「牙彫・木彫」「印籠」「刺繍絵画」の各テーマ別に、百数十点の作品が並んでいます。
 
どれもこれも舌を巻くような技巧がこらされ、しかも趣味がいい作品ばかりです。副題にある「村田コレクション」とは、京都・清水三年坂美術館館長の村田理如氏の収集による同館収蔵品ということです。
 
明治期のこうした工芸については、近年まで正当な評価がされてきませんでした。一つには、主に輸出用に作られたため、国内に現物があまり残っていないという理由があります。村田氏は海外から買い戻したりして収集にあたられたとのこと。頭が下がります。
 
また、一部には度を超して技巧を凝らしすぎた作品があったのも事実です。そのため、永らくゲテモノ扱いされていたという部分があります。
 
そうした経緯は同展図録に掲載の村田氏「明治の工芸に魅せられて」、それから同展監修者の明治学院大学教授・山下裕二氏「超絶技巧の逆襲――明治工芸の再評価に向けて」に詳述されています。
 
1970年代刊行の日本美術史の書籍では、明治期の工芸はほとんど黙殺。「明治以降を専門領域とすることなど、アカデミックな研究者としてはいかがなものか、というような空気がたしかにあった」というのです。
 
上記画像のタケノコの作者、牙彫の安藤緑山などは、未だに生没年すら不詳ですし、弟子もとらなかったとのことで、その着色の方法もよくわかっていないそうです。昨年、テレビ東京系「美の巨人たち」で取り上げられ、興味深く拝見しました。
 
明治の工芸に光があたるようになって20年くらいでしょうか。当方、平成7年(1995)3月刊行の『芸術新潮』を持っていますが、「日本人が見捨てた明治の美「置物」彫刻の逆襲」という特集記事が載っています。
 
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第一部が「明治の木彫王高村光雲ものがたり」32ページ、第二部が「異人さんに買われていった明治輸出工芸の底力」27ページ。
 
この頃から、ようやく明治期の工芸が無視できない風潮になってきましたが、この時点では、まだゲテモノ扱いです(光雲作品は違いますが)。曰く、
 
悪趣味なまでに大胆、過剰なこのデザイン! これでもか、これでもかと持てる技巧を尽くしたこの出来ばえ……明治の職人たちが生き残りを賭けて生んだ異形の工芸品は、それが輸出用であったがために日本では忘れ去られて、欧米で静かに眠り続けてきた。
 
その後、平成5年(1993)に開館された宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品に注目が集まるようになり、昨年には京都国立近代美術館で「皇室の名品-近代日本美術の粋-」展が開催され、それをもとにNHKさんで「皇室の宝「第1夜 日本の危機を救った男た救った男たち」「第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」」が放映され、ここにきてとみに明治工芸に注目が集まっています。
 
確かに悪趣味なまでに装飾過剰のものも存在したのですが、000そうではない佳品もたくさん存在するのです。今回の三井記念美術館さんの展覧会を観ればよくわかると思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今回、光雲の木彫が2点並んでいます。「西王母」(昭和6年=1931)、 「法師狸」(制作年不詳)です。大作の「老猿」とはまた違った、小品ならではの魅力に富んでいます。
 
以前にも書きましたが、下記日程で巡回されます。

佐野美術館(静岡県三島市) 
 2014年10月4日(土)~12月23日(火・祝)
山口県立美術館(山口市)
 2015年2月末~4月下旬
 
さらに、NHKさんの「日曜美術館」、5月11日の放送が「知られざる明治工芸の超絶技巧」という副題ですので、この展覧会を扱うものと思われます。同番組MCの井浦新さんは、この展覧会の関連行事のトークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する!」で、山下氏とともにご出演されるそうです。
 
「日曜美術館」については、新たな情報が入りましたらまたお伝えします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月2日

明治37年(1904)の今日、神田の高折周一音楽講習所でヴァイオリンのレッスンを受けました。
 
日記によれば、四月からレッスンに通い始めたとのこと。束脩(入門料)は1円、月謝は1円50銭。自転車の荷台にバイオリンをくくりつけて通ったそうです。
 
高折周一は東京音楽学校出身のヴァイオリニスト。のちに渡米し、明治45年(1912)、有名なポトマックの桜の植樹式で、高折の曲が演奏されたという記録があります。
 
ポトマックの桜をアメリカまで運んだのは、日本郵船の阿波丸(Ⅰ世)という船。この船は、かつて明治42年(1909)、欧米留学から帰る光太郎が乗った船です。不思議な縁を感じます。