新刊です。といっても、2ヶ月程経っていますが……。
詩的思考のめざめ
2014年2月20日 阿部公彦著 東京大学出版会刊行 定価2,500円+税
版元サイトより
内容紹介
名前をつける,数え上げる,恥じる,などの切り口から日常に詩のタネを探してみよう.萩原朔太郎,伊藤比呂美,谷川俊太郎といった教科書の詩人のここを読んでみよう.詩的な声に耳を澄ませば,私たちと世界の関係がちがったふうに見えてくる.言葉の感性を磨くレッスン.
主要目次
はじめに――詩の「香り」にだまされないために
I 日常に詩は“起きている”――生活篇
第1章 名前をつける――阿久悠「ペッパー警部」,金子光晴「おっとせい」,川崎洋「海」,梶井基次郎「檸檬」ほか
第2章 声が聞こえてくる――宮沢賢治「なめとこ山の熊」,大江健三郎『洪水はわが魂に及び』,宗左近「来歴」
第3章 言葉をならべる――新川和江「土へのオード」,西脇順三郎『失われた時』,石垣りん「くらし」
第4章 黙る――高村光太郎「牛」
第5章 恥じる――荒川洋治『詩とことば』,山之口貘「牛とまじない」,高橋睦郎「この家は」
II 書かれた詩はどのようにふるまうか――実践編
第6章 品詞が動く――萩原朔太郎「地面の底の病気の顔」
第7章 身だしなみが変わる――伊藤比呂美「きっと便器なんだろう」
第8章 私がいない――西脇順三郎「眼」
第9章 型から始まる――田原「夢の中の木」ほか
第10章 世界に尋ねる――谷川俊太郎「おならうた」「心のスケッチA」「夕焼け」ほか
読書案内
I 日常に詩は“起きている”――生活篇
第1章 名前をつける――阿久悠「ペッパー警部」,金子光晴「おっとせい」,川崎洋「海」,梶井基次郎「檸檬」ほか
第2章 声が聞こえてくる――宮沢賢治「なめとこ山の熊」,大江健三郎『洪水はわが魂に及び』,宗左近「来歴」
第3章 言葉をならべる――新川和江「土へのオード」,西脇順三郎『失われた時』,石垣りん「くらし」
第4章 黙る――高村光太郎「牛」
第5章 恥じる――荒川洋治『詩とことば』,山之口貘「牛とまじない」,高橋睦郎「この家は」
II 書かれた詩はどのようにふるまうか――実践編
第6章 品詞が動く――萩原朔太郎「地面の底の病気の顔」
第7章 身だしなみが変わる――伊藤比呂美「きっと便器なんだろう」
第8章 私がいない――西脇順三郎「眼」
第9章 型から始まる――田原「夢の中の木」ほか
第10章 世界に尋ねる――谷川俊太郎「おならうた」「心のスケッチA」「夕焼け」ほか
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おわりに――詩の出口を見つける
著者の阿部氏は東大文学部准教授。「東大」というブランドをありがたがるわけではありませんが、なかなかおもしろい論考集です。
上記目次で目立つようにしましたが、光太郎詩「牛」が扱われています。章の題が「黙る」。これはどういうことでしょうか。実際に引用してみます。
人は大きい声を出すことで、強く言おうとする。しかし、より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある。「牛」という作品はその境地を目指したものと思えます。牛が体現しているような黙ることの強さを、詩の中に何とか表そうとしている。
「牛」という詩は、大正2年(1913)の作。光太郎の詩の中では有名な部類に入りますので、、ご存知の方も多いのではないでしょうか。全部で115行もある長大な詩です。で、115行、「牛はのろのろと歩く」に始まり、最終行の「牛は平凡な大地を歩く」まで、とにかく農耕用の牛の描写に徹しています。
牛
牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まつすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
自然を信じ切つて
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まつすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
自然を信じ切つて
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際(てぎは)だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも
十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも
十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
※2ヶ所でてくる啼き声の「もう」は傍点がついていますが、うまく書き表せません。
いわば、声高な作者の主義主張は語られていません。しかし、それがかえって効果をもたらしています。愚鈍にゆっくりと歩み続ける牛の姿に、光太郎の姿がオーバーラップします。当方、阿部氏はそうした点を「より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある」と解釈しているのだと読み取りました。
是非お買い求めを。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月26日
昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋周辺で、野草をスケッチしました。
太田村時代、スケッチはこの日に限らずよくやっていたのですが、とりあえず「今日」のできごとということで……。
こうしたスケッチは後に昭和41年(1966)、中央公論美術出版から『山のスケッチ』として刊行されました。