一昨日、4月2日は高村光太郎の命日でした。
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催しましたが、戦中から戦後にかけ、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも詩碑前祭、そして連翹忌の集いがもたれました。
岩手)高村光太郎の命日 花巻で住民らがしのぶ
彫刻家で詩人の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で「詩碑前祭」があり、地元の児童らが光太郎の詩を朗読した。
光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。その後東京に戻り、56年に死去。翌年から地元の住民らが毎年、山荘で集まりを持っている。
この日は山荘近くにある詩碑の前に住民ら約70人が集まった。詩碑には、山荘での生活をうたった「雪白く積めり」が刻まれており、住民はこの詩など8編を朗読し、故人をしのんだ。
(朝日新聞)
“先生”の教え心に 高村光太郎命日に詩碑前祭
詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた詩碑前祭と連翹忌(れんぎょうき)法要が2日、59回忌に当たる今年も花巻市内で行われ、参加者が花巻ゆかりの偉人をしのんだ。
詩碑前祭は、同市太田山口地区の住民らで組織する高村記念会山口支部が毎年主催。同地区の高村山荘敷地内広場で催され、約50人が参加した。
照井康徳支部長は「来年は高村先生が花巻に来てから70周年で、60回忌の節目を迎える。この機会に先生をしのんでもらいたい」とあいさつ。高橋百花さん(太田小学校1年)と小原律君(同2年)が詩碑に献花し、新渕澄副支部長が祭文奏上した。
詩の朗読も行われ、上太田子供会が「山の広場」を読み上げたのを皮切りに、花巻高村光太郎記念会の駿河いく子さん、山口支部理事の本館文男さんと高橋新吉さん、太田の区長会が発表。詩碑には光太郎の遺影が掲げられ、参加者が線香を上げて静かに手を合わせた。
光太郎は1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失。翌月に宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、稗貫郡太田村山口の山荘で7年間暮らした。
上太田子供会の安倍依織莉さん(同6年)は「山の良いところがたくさん書かれている詩『山からの贈り物』が好き。高村先生は誰にでも優しい人だったと思う。地元にいたことに誇りを持ちたい」と話していた。
詩碑前祭は、同市太田山口地区の住民らで組織する高村記念会山口支部が毎年主催。同地区の高村山荘敷地内広場で催され、約50人が参加した。
照井康徳支部長は「来年は高村先生が花巻に来てから70周年で、60回忌の節目を迎える。この機会に先生をしのんでもらいたい」とあいさつ。高橋百花さん(太田小学校1年)と小原律君(同2年)が詩碑に献花し、新渕澄副支部長が祭文奏上した。
詩の朗読も行われ、上太田子供会が「山の広場」を読み上げたのを皮切りに、花巻高村光太郎記念会の駿河いく子さん、山口支部理事の本館文男さんと高橋新吉さん、太田の区長会が発表。詩碑には光太郎の遺影が掲げられ、参加者が線香を上げて静かに手を合わせた。
光太郎は1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失。翌月に宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、稗貫郡太田村山口の山荘で7年間暮らした。
上太田子供会の安倍依織莉さん(同6年)は「山の良いところがたくさん書かれている詩『山からの贈り物』が好き。高村先生は誰にでも優しい人だったと思う。地元にいたことに誇りを持ちたい」と話していた。
(岩手日日新聞)
連翹忌法要にファンら集う
連翹忌法要は、光太郎の顕彰活動を続けている花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)が毎年開催。光太郎が花巻で暮らしていた際に妻・智恵子や父母の法要を行った同市双葉町の松庵寺で営まれ、約40人が参列し焼香した。
小川隆英住職は法話で、子供の頃に見た光太郎の姿を「いつもリュックサックを背負い、どた靴を履いて寺に来た。背が高く手足も大きく、風格があった」と振り返った。ほかに光太郎の随筆「顔」を取り上げて「高村先生は『思無邪』の顔、邪のない心を持った人の顔が一番美しいと言っておられる」と、人のあるべき生き方を説いた。
献茶をした倉金和子さん(78)=同市下似内=は「高村先生は素晴らしい人。世知辛い世の中になってしまったが、豊かな心や思いやりを大事にしたい」と話していた。
法要に続いて追悼座談会が開かれ、参加者が光太郎の思い出や作品の感想などを語り合った。
小川隆英住職は法話で、子供の頃に見た光太郎の姿を「いつもリュックサックを背負い、どた靴を履いて寺に来た。背が高く手足も大きく、風格があった」と振り返った。ほかに光太郎の随筆「顔」を取り上げて「高村先生は『思無邪』の顔、邪のない心を持った人の顔が一番美しいと言っておられる」と、人のあるべき生き方を説いた。
献茶をした倉金和子さん(78)=同市下似内=は「高村先生は素晴らしい人。世知辛い世の中になってしまったが、豊かな心や思いやりを大事にしたい」と話していた。
法要に続いて追悼座談会が開かれ、参加者が光太郎の思い出や作品の感想などを語り合った。
(岩手日日新聞)
ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月4日
明治45年(1912)の今日、「光雲還暦記念胸像」の贈呈式が行われました。
それに対し光太郎は見事に応えました。
おそらく同じ時期におそらく習作として造った「光雲の首」は現存しており、昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも出品されましたが、「還暦記念胸像」自体は残念ながら現存が確認できておりません。
時折、この二つの彫刻を混同している記述があり、困っています。
写真は贈呈式の模様。右が光雲、左は光雲の妻にして光太郎の母・わかです。