先日のこのブログで、作家・津村節子さんについて書きました。ご主人の故・吉村昭氏ともども、岩手の田野畑村とのご縁が深く、東日本大震災後には、村の復興のために骨を折られているとのこと。
 
当方も微力ながら、同じ三陸の女川の復興支援に少しだけ関わっておりますので、興味をひかれ、津村さんの近著を2冊購入しました。
 
まず1冊、昨年6月、集英社より刊行された『愛する伴侶(ひと)を失って 加賀乙彦と津村節子の対話』を読了しました。
 
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やはり作家の加賀乙彦氏との対談です。加賀氏は奥様に、津村さんはご主人にそれぞれ先立たれていて、それを軸にしたトークです。
 
泣けます。
 
加賀氏――
日曜日には女房と二人で聖イグナチオ教会に行っていました。(中略)春は堤に連翹と桜が満開でね。連翹の花というのは十字架の形ですから、十字架がたくさんあるような感じがして。二人でよく教会の帰りに四谷から市谷のあたりまで歩きました。
 
津村さん――
私は今でも、公園の中を歩いて「ああ、ここ、一緒に歩いたなあ」って、そういうことが始終あるんです。退院して再入院するまでの間、二人でよく、歩きました。公園のあたりで「このベンチに一緒に腰かけたな」とか……。
 
お二人のお話から、智恵子を失った後の光太郎を彷彿とさせられます。
 
ちなみに光太郎曰く、
 
智恵子が死んでしまつた当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかつた。作りたいものは山ほどあつても作る気になれなかつた。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つてゐるからである。さういふ幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。
「智恵子の半生」(昭和15年=1940)
 
幸い当方の伴侶は元気です。しかし、いずれこういう立場になるのだろうか、などと考えさせられました。または逆に当方が先に逝き、伴侶が残されることもあり得るな、とも。そうなった場合、「せいせいした」と言われるのではないかと、それが心配です(笑)。
 
もう一冊、やはり昨年の11月に講談社から刊行された『三陸の海』。こちらはまだ読んでいる最中です。
 
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夫妻共に縁の深い田野畑村が描かれています。田野畑は光太郎と縁の深かった宮澤賢治ゆかりの地でもあり、熟読前にざっと斜め読みしたところ、賢治についての記述もありました。
 
以下、講談社さんのサイトから。
 
震災を経て、再びかの地へ――
2011年3月11日。「私」が新婚時代に夫・吉村昭と行商の旅をした三陸海岸を、大津波が襲った。
三陸の中でも岩手県の田野畑村は夫婦にとって特別な場所。夫婦で同人雑誌に小説を書きながらの生活は厳しかったが、執筆に専念するため勤めを辞めた夫は、2泊3日かけて「陸の孤島」と呼ばれていた田野畑へ向かう。鵜の巣断崖の絶景に出会った夫は小説の着想を得て、昭和41年に太宰治賞を受賞、作家の道が開けた。取材以外の旅はしなかった夫は、家族を連れて唯一、田野畑だけには旅行するようになる。
もし夫が生きていたら、津波に襲われた愛する三陸の姿を見て、どんなに悲しんだだろう。三陸は故郷ではない。住んだこともない。でもあの日、津波が襲ったのは、「私」にとってかけがえのない場所だ――。
震災の翌年、夫の分まで津波の爪痕を目に焼き付け、大切な人々に会うため、息子と孫と共に田野畑を巡った妻の愛の軌跡。
 
ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月28日

平成3年(1991)の今日、文治堂書店から北川太一著『高村光太郎ノート』が刊行されました。
 
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高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問もお願いしています北川太一先生の著作集です。書き下ろしではなく、あちこちに発表された文章の集成で、編集は北川先生が高校教諭だった頃の教え子の会「北斗会」の皆さんです。どこをとっても示唆に富む内容です。