昨日、長野県の碌山美術館さんの館報をご紹介しましたが、お隣山梨県立文学館さんからも最新の館報を頂きました。ありがとうございます。
昨秋開催された企画展「与謝野晶子展 われも黄金(こがね)の釘一つ打つ」の報告が掲載されています。
4/2(水)の連翹忌には、同館の三枝昻之館長と、同展担当学芸員の保坂雅子さんがご参加の予定です。
それから4/12(土)から開催される企画展「村岡花子展 ことばの虹を架ける~山梨からアンの世界へ~」について詳しく紹介されています。
NHKの朝ドラ、来週から「花子とアン」の放映が始まりますから、非常にタイムリーですね。
村岡花子は甲府出身。日本で初めて「赤毛のアン」を翻訳紹介しています。
年齢的には光太郎のちょうど10歳下です。残念ながら『高村光太郎全集』には村岡の名は出てきません。しかし、光太郎が詩部会長だった戦時中の日本文学報国会で、村岡も女流文学者委員会の委員を務めていますし、昭和17年(1942)11月に開催された大東亜文学者会議には、二人とも参加しています。おそらく面識はあったでしょう。また、詩人の永瀬清子、編集者の前田晁など共通の知人も多く、そういった部分での接点もありました。
NHKの朝ドラ「花子とアン」、戦時中の村岡をどのように描くか、非常に興味があります。別に戦争協力を糾弾するわけではありません。日本文学報国会にしても、加入していなかった文学者を捜す方が難しい状態で、当時としては、ある意味しかたのないことです。
先月亡くなった「ぞうさん」のまど・みちお氏にしても、戦時中には戦争協力の詩を書いています。まどさん自身、それを隠さず平成4年(1992)に刊行された『まど・みちお全詩集』にそれらを収録、さらに「あとがき」ではその点や、戦後には一転して反戦運動に関わるようになったことを、流される自分のなさけなさとして述懐しているそうです。
光太郎も戦後は花巻郊外太田村での隠遁生活を「自己流謫(=流刑)」と位置づけ、あえて不自由な生活を続けました。
そのあたり、村岡がどうだったかというのが興味深いところです。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月27日
昭和27年(1952)の今日、NHKラジオ放送「朝の訪問」のため、花巻温泉松雲閣で、詩人の真壁仁と対談しました。
松雲閣 戦前絵葉書