信州安曇野の碌山美術館様より、同館館報の第34号をいただきました。B5判、72ページもある分厚いものです。ありがとうございます。
 
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表紙は同館にて新しく収蔵した光太郎彫刻「倉田雲平胸像」。長野出身の彫刻家・酒井良氏が解説されています。
 
十和田湖畔の裸婦像制作後に取り組み、結局、未完のまま光太郎は歿してしまいました。しかし、未完ゆえの荒々しいタッチが不思議な迫力をかもし出している彫刻です。モデルは日華ゴム(現・ムーンスター)の創業者・倉田雲平です。
 
後半、光太郎の甥・高村規氏による「伯父 高村光太郎の思い出」が掲載されています。
 
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昨年4月、同館で催された碌山忌記念講演会の筆録です。
 
こちらは18ページもあり、非常に読み応えがあります。内容的にも、近親者として見た光太郎の様々なエピソードが紹介されており、非常に興味深いものです。表紙の「倉田雲平胸像」についても記述があります。
 
他にも学芸員の武井敏氏による「碌山研究 荻原守衛のイタリア・エジプト旅行② ―フィレンツェ篇―」、「美術講座 ストーブを囲んで 名誉副館長荻原孝子さんを語る 碌山の芸術に捧げた生涯」など、興味深い記事が満載です。
 
4/2(水)の連翹忌にご参加頂ける方には、無料でお配りいたします。
 
それ以外の方、お問い合わせはこちらまで。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月26日

昭和19年(1944)の今日、茨城取手の長禅寺で、講話を行いました。
 
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取手には、光太郎と親交の深かった宮崎仁十郎・稔の親子が住んでいました。のちに戦後になって、光太郎が仲介して、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と稔が結婚します。
 
宮崎家との関係から、長禅寺には光太郎の筆跡を刻んだ碑が二基現存しています。一基は昭和14年(1939)に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」。小川芋銭(うせん)は日本画家。取手に近い牛久に暮らし、河童の絵を描き続け、やはり宮崎家と交流がありました。もう一基は昭和23年(1948)建立の「開闡(かいせん)郷土」碑。ともに題字のみ光太郎の揮毫です。
 
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左:「小川芋銭先生景慕之碑」  右:「開闡郷土」碑
 
長禅寺は戦時中、錬成所という社会教育のための機関が置かれていたとのことで、ここで光太郎の講話が行われました。やはり宮崎家の肝煎りです。聴衆は40名程。母についての話があったということですが、それ以上詳しいことは不明です。