昨日のこのブログでも少し書きましたが、もうすぐ3・11ということで、新聞紙上などでも特集が組まれたりしています。
 
特集というわけではありませんが、光太郎ゆかりの地、女川からのニュースが、昨日の『朝日新聞』さんに載りました。

津波で倒れたビル、解体 宮城・女川

 宮城県女川町で3日、東日本大震災の津波で横倒しになったビルの解体が始まった。ビルが津波で倒れた例は世界でも珍しく、震災遺構として保存をめざす動きもあったが、周辺の復興工事の支障になるため、町は取り壊すことにした。1967年ごろに建てられた4階建ての「女川サプリメント」。ここに住み、健康食品の店を営んでいた千葉進さん(52)の一家6人は、高台に逃れて無事だった。震災の後、妻の郷里の青森県へ引っ越し。撤去については「私は離れていますから」と言葉少なだった。
 女川町には津波で倒壊したビルがほかに2棟残る。町は4階建ての「江島共済会館」は今秋までに撤去し、2階建ての「女川交番」は保存する方向だ。

 
昭和6年(1931)、光太郎が『時事新報』の依頼で紀行文を書くため女川を訪れたことを記念し、平成3年(1991)に女川港に、4基の光太郎文学碑が建てられました。
 
3・11には巨大津波が町を襲い、甚大な被害。街は消滅、女川光太郎の会事務局長として、碑の建立に奔走された貝(佐々木)廣さんも津波に呑まれ、亡くなりました。光太郎碑もあるいは横倒しとなり、あるいは海に流失……。
 
津波で倒れたビルは光太郎碑のすぐ近くです。当方、一昨年昨年と、現地を訪れた際に見てまいりました。三棟あったのですが、そのうちの二棟は撤去されるそうで、一棟めの解体が始まったとのこと。
 
気になったので、女川町の公式サイトから調べてみました。
 
すると、今年1月発行の『広報おながわ』がPDFで見られ、その中に以下の記述がありました。

震災遺構の保存方針 女川サプリメント・江島共済会館は解体 女川交番を保存の方針、活用方法を検討

11月27日、須田善明町長が記者会見を開き、震災遺構の解体・保存に関する本町の方針を表明しました。

震災遺構については、今後の津波被害軽減のための学術的価値や損傷の激しさ、「震災を思いだしたくない」という町民の心情、造成工事スケジュールや財政面など、保存と解体をめぐって総合的に検討してきました。
 
町長は会見で、倒壊した3つの建物について①女川サプリメントは早ければ1月ごろから解体・撤去に着手、②江島共済会館は損傷の度合いが一番高く最終的には撤去するが、大勢の方が関心を持つ施設だけに造成工事の着手時期まで現状を維持、③女川交番は保存の方針で検討中だと述べました。

なお、震災遺構は今後の研究材料となることから、東北大学における3Dモデル化や町におけるレーザー測量等の記録にも努めていく点、また、これらの方針を踏まえて次回定例議会で予算化していく考えなどを示しました。
 
震災遺構の保存方針
女川サプリメント
港湾の復旧工事範囲であり、建物は1月ごろから解体・撤去に着手。
江島共済会館
鷲神浜エリアに位置し、今後盛土の造成工事、道路敷設が必要。最終的には撤去の方向だが、    当該地の造成工事の着手時期まで現状を維持。
女川交番
保存の方針で検討中。当該地の造成工事の着手時期は一番遅いため、何を後世に伝えるか議論   したうえで、保存・活用の方法について検討。
 
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保存されるという女川交番のすぐ隣が貝(佐々木)廣さんのご自宅でした。
 
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一帯は光太郎碑、保存の方向の女川交番も含め、震災メモリアル公園的な形に整備していく計画とのこと。
 
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こうした建物の保存。いろいろ難しい問題も含んでいることと思われます。地元被災者の皆さんには、つらい記憶を呼びさまされる、ある意味負の遺産であるという面があります。しかし、後の世代の人々が防災意識を高く保つために、震災の記憶を風化させないことも大切です。
 
そういう意味では、原爆ドームのある広島の平和記念公園のようなイメージと言っていいかも知れません。
 
明日も女川の話題を。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月5日

大正3年(1914)の今日、雑誌『美の廃墟』に詩「道程」が掲載されました。
 
というわけで、今日が「道程」表表100周年です。
 
2/9のこのコーナーにも書きましたが、発表時は102行もある大作でした。それが10月に刊行された詩集『道程』に収録の際に、現在流布している9行の短い形に削られました。
 
  道程
 
どこかに通じてゐる大道を僕は歩いているのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
支離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命(いのち)の道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が生命(いのち)に導く道だつた
そして僕は此処まで来てしまつた
このさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此処と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ
恰度その時事態は一変した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の気魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は気味の悪い程静かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕はその時又父にいのる
父はその風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
声をあげて祝福を伝へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのも見える
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千万人の中で百人も残れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつとこの風景に養はれ育(はぐく)まれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程の為め