新刊です。
覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻
2014年1月30日 ブックワークス響発行 中島悠子編 定価 1,400円+税
詩人・八木重吉の妻であり、のちに歌人・吉野秀雄と再婚した、「登美子」という一人の女性の人生を辿る本。高村光太郎に才能を見いだされながらも、数え年30という若さで世を去った八木重吉。會津八一の門人として生涯を歌に捧げた吉野秀雄。この二人の芸術家に愛された女はどのような人であっただろう、と興味を抱いた装幀家・編集者の中島悠子さんが、彼らの遺した作品や書簡を手がかりに研究を重ねてまとめられました。そこで明らかになったのは、あらゆる人生の不幸にもかかわらず、よく歌いよく働いた、たくましい女性の姿でした。余分な虚飾を排し、現存するテキストにのみ忠実でありながら、苦しい時代を生き抜いた登美子の実像をありありと浮かび上がらせる構成は、見事というほかありません。彼女への敬愛の念にあふれた美しい一冊、ぜひお手に取って清らかな生のあり方に触れてください。(恵文社一乗寺店さんサイトより)
吉野登美子。上記解説文にある通り、初め、詩人・八木重吉と結婚しました。しかし八木は昭和2年(1927)、数え29歳の若さで病没。のち、戦後になってから同様に妻を亡くした歌人・吉野秀雄と再婚します。
登美子の偉いところは、戦時中も亡夫・八木の遺稿をバスケットに詰めて持ち歩き、守り通したこと。さらに、ただ守っただけでなく、詩集として刊行したこと。頓挫した計画を含め、光太郎も尽力しています。
八木の没後間もない昭和3年(1928)には、雑誌『野菊』に「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」を発表して絶賛し、同11年(1936)には、雑誌『詩人時代』に「八木重吉の詩について」を発表しました。これは同17年(1942)に山雅房から刊行された『八木重吉詩集』の序文にも転用されていますし、この刊行自体、光太郎の口利きが大きかったようです。翌年には新たな八木の詩集のために改めて序文と題字を執筆しました。ただし、こちらは戦争の激化などのため、お蔵入りとなってしまいました。
戦争が終わり、吉野と再婚してからも、登美子は八木の詩集刊行に力を注ぎます。そして吉野もそれに協力。これはなかなかできることではないと思います。
さて、横浜にある神奈川近代文学館に、吉野夫妻の遺品数千点が寄贈されています。その中に光太郎からの書簡が16通、昭和18年(1943)刊行予定が幻に終わった八木の詩集のために光太郎が書いた題字が2種類(「麗日」「花がふつてくると思ふ」)含まれています。この題字については従来知られていなかったものでしたし、書簡の中にも『高村光太郎全集』に漏れていたものがあり、10年近く前に調査に行きました。
そんなわけで、『覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻』刊行の情報を得て、すぐに購入いたしました。先程届いたばかりで、まだ斜め読みしただけですが、しっかり光太郎にも言及されており、熟読するのが楽しみです。
皆様もぜひお買い求め下さい。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月1日
昭和60年(1985)の今日、芸術新聞社発行の書道雑誌『墨』第53号が発行されました。
「高村光太郎 書とその造型」という70ページ超の特集が組まれました。豪華な執筆陣で、内容的に非常に充実していますし、写真図版も非常に多く、お薦めの一冊です。時折古書市場で見かけます。