十和田レポートの2回目です。
2/8(土)、夕刻、十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一清一さんが運転する車で、十和田湖畔・休屋に到着しました。
こちらの多目的広場的スペースで、7日(金)から「十和田湖冬物語2014」が開催されています。
一言で言えば、十和田湖の冬を愉しもうというイベントです。
この機会に光太郎作の彫刻、十和田湖畔の裸婦群像・通称「乙女の像」を久しぶりに見てみたいと思い、行ってみた次第です。「十和田湖冬物語2014」期間中は、夕方から夜にかけ、ライトアップがされているとのこと。
会場の駐車場に車を駐め、十和田湖自然ガイドクラブ会長の吉崎明子さんと合流、乙女の像目ざして歩きました。
湖畔の波打ち際は、雪と氷で幻想的な雰囲気になっていました。
歩くこと10分弱、乙女の像にたどり着きました。
雪を固めて作ったたくさんの灯籠に電球がともされ、像には2方向からスポットライト。すっかり日の暮れた空に浮かびあがっています。
この像と対面するのは約20年ぶり。感動しました。
この像には約2分の1スケールの中型試作があり、昨年、全国3ヶ所巡回で開かれた「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に展示された他、花巻の高村光太郎記念館、福島二本松の智恵子記念館にも収蔵されており、昨年だけで10回以上見ました。
しかし、やはり2分の1スケールの中型試作とは、まったく迫力が違いますね。
この像を謳った光太郎の詩に、次の作品があります。
十和田湖畔の裸像に与ふ
銅とスズとの合金が立つてゐる。
どんな造型が行はれようと
無機質の図形にはちがひがない。
はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
きたならしさはここにない。
すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のように立つてゐる
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪へて
立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。
銅とスズとの合金が立つてゐる。
どんな造型が行はれようと
無機質の図形にはちがひがない。
はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
きたならしさはここにない。
すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のように立つてゐる
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪へて
立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。
約20年前に初めて見た時も感動しましたが、その時は夏の昼間。今回、冬の黄昏に浮かび上がるその姿は、まさに「天然四元の平手打をまともにうけ」ているように見え、この詩句が実感できました。
ちなみに像のかたわらにはこの詩を刻んだ詩碑も建てられています。
名残惜しいと思いつつ、心の中で再訪を誓い、乙女の像をあとにしました。帰りは十和田神社の境内を通って、「十和田湖冬物語」会場へ。
札幌雪祭りと同じように、巨大な雪像が作られています。やはり札幌同様、自衛隊さんによるもので、雪を使っての築城訓練の一環という位置づけだと思います。
会場内にはプレハブの飲食店が軒を並べ、最近、B級グルメとして注目を浴びている「十和田バラ焼き」などが売られています。当方、うどんにおでん、ヒメマスの塩焼き、さらに「乙女餅」なるものを食べました(お代は山一さん、吉崎さんにもって頂いてしまいました。ありがたや。)
さらに天然温泉を引いてきての足湯(100円)もあり、冷えた体にありがたいものでした。
この日は7時30から特設ステージで津軽三味線や和太鼓の演奏などがあり、さらに8時からは花火。そのころになると、来場者も数百人、ことによると1000人近く集まっていたのではないかと思われました。
花火を見終わったところで、吉崎さんに別れを告げ、山一さんの運転で、奥入瀬の宿まで送って頂きました。ゆっくりと温泉につかり、就寝。
確かに寒いのは寒いのですが、雪国の人々のエネルギー的なものを感じました。「十和田湖冬物語」、3月2日まで開催されています。ぜひ足をお運び下さい。
続きはまた明日。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月11日
明治22年(1889)の今日、大日本帝国憲法が発布されました。
宮中正殿での発布式のあと、明治天皇は青山練兵場で行われる観兵式に向かうため、馬車で市中に出ました。この日の東京も雪だったそうです。
その時のことを謳った光太郎の詩があります。
土下座(憲法発布)
誰かの背なかにおぶさってゐた
上野の山は人で埋まり、
そのあたまの上から私は見た。
人払をしたまんなかの雪道に
騎兵が二列に進んでくるのを。
誰かは私をおぶったまま、
人波をこじあけて一番前へ無理に出た。
私は下におろされた。
みんな土下座をするのである。
騎兵巡査の馬の蹄が、
あたまの前で雪を蹴つた。
箱馬車がいくつか通り、
少しおいて、
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手につよく押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした
――眼がつぶれるぞ――
上野の山は人で埋まり、
そのあたまの上から私は見た。
人払をしたまんなかの雪道に
騎兵が二列に進んでくるのを。
誰かは私をおぶったまま、
人波をこじあけて一番前へ無理に出た。
私は下におろされた。
みんな土下座をするのである。
騎兵巡査の馬の蹄が、
あたまの前で雪を蹴つた。
箱馬車がいくつか通り、
少しおいて、
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手につよく押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした
――眼がつぶれるぞ――
この詩が発表されたのは昭和22年(1947)。太平洋戦争中、空虚な戦意昂揚の詩を大量に書き殴って、多くの前途有望な若者を死地へ追いやったという反省から書いた20篇から成る連作詩「暗愚小伝」の冒頭を飾る詩です。
この時、数え7歳の光太郎の頭を押さえつけ、「眼がつぶれるぞ」と言ったのは誰でしょうか。父・光雲、祖父・兼吉、あるいは光雲の弟子の誰かでしょうか。そうい具体的な人物、というよりは、この頃の光太郎を取り巻いていた「明治」の空気の象徴、と捉えた方がいいのかも知れません。