1/25のこのブログでご紹介した写真展「昭和初期の赤城山を見る」。先週開幕し、『東京新聞』さんなどで報道されています。
昭和初期の赤城山たどる 前橋で写真展 猪谷六合雄の孫 保管の95枚
昭和初頭の赤城山の情景をモノクロ写真でたどる「昭和初期の赤城山を見る」が赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町)で開かれている。赤城山にゆかりが深く、日本スキー界の草分けとして知られた猪谷六合雄(いがやくにお)の孫が保管していた写真で、まとまった形で公開するのは初めて。
企画したNPO法人赤城自然塾の小林善紀事務局長は「撮影の時期や場所もはっきりした貴重な資料で、環境学習に生かしたい」と話す。
写真は昭和五(一九三〇)年から同八年の撮影で、一冊の写真帳に九十五枚が収められていた。「早春残雪ノ小沼平 昭和六・五月初」などと、それぞれ台紙に場所、年月を記している。写真の一部に「IGAYA MT.AKAGI JAPAN」の刻印があるが、このころ六合雄は群馬を離れており、親族の撮影との見方もある。
展示には、赤城大沼付近にあった軍馬を育成する牧場や、あちこちで起きていた「ゾロ」と呼ばれる山肌崩壊をとらえた写真がある。戦後、牧場が閉じられると樹木が覆い、砂防ダムの建設でゾロが抑えられた。写真展を監修した東京福祉大大学院の栗原久教授は「数十年で植生や環境が変わったことが分かる」と話す。
旧赤城神社の立派な社殿の写真もあり、住民が赤城山を敬っていたことも読み取れる。
写真帳は猪谷の孫でセンター職員だった小竹恵美子さん(66)=前橋市=が十五年ほど前、父猪谷孟夫さんの遺品から見つけた。小竹さんが自然塾での依頼講演で紹介すると、「多くの人に見てもらうべきだ」と勧められた。運用を任された塾が中部県民局中部行政事務所の協力で写真展にこぎ着けた。
栗原さん、小林さんは「撮影場所をたどる環境ツアーの開催など展示以外でも生かしたい」と話す。
写真展はセンターが七日まで、十二日~三月七日が県前橋合同庁舎(同市上細井町、土日は閉庁)、三月十~十七日が前橋プラザ元気21(同市本町)。二月十三日午後一時半から、同合同庁舎で栗原さんの講演会(先着百人、無料)がある。申し込みは中部行政事務所=ファクス027(234)9333、問い合わせは、同=電027(231)2765=へ。
<猪谷六合雄> 1890~1986年。旧富士見村出身。赤城山で旅館経営に携わり、スキーを愛し指導に取り組んだ。国際オリンピック委員会委員も務めた息子の千春氏は、1956年のコルチナ・ダンペッツォ五輪(イタリア)のアルペン競技(回転)で日本人初の冬季五輪メダリストとなった。小説家の志賀直哉、詩人・彫刻家の高村光太郎らとも交流した。
ちょうどソチ五輪が開幕しましたが、猪谷六合雄の子息・千春氏は日本人初の冬季五輪メダリストなのですね。ちなみに氏がメダルを獲得したコルチナ・ダンペッツォ五輪は昭和31年(1956)1月26日から2月5日までということで、光太郎は余命あと2ヶ月、ほぼ寝たきりの時期でした。光太郎、千春氏の活躍を知っていたのでしょうか。
この記事を書いている今、午前0時をまわって、日付が変わったばかりです。今日から1泊2日で十和田に行って参ります。雪の青森はどんなものなのだろう、と思っていましたら、今日明日と、関東でも大雪という予報。在来線の特急はもう運休が決まっているとのこと。十和田まで予定通りたどりつけるか心配です。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月8日
明治44年(1911)の今日、実質的に光太郎が経営していた日本初といわれる画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、与謝野晶子の短冊が売れました。
値段は10銭。この日に限らず、晶子の短冊は琅玕洞の人気商品の一つでした。今も時折古書市場で晶子の短冊を見かけますが、中には琅玕洞経由で売られたものも含まれていると考えられます。