昨日のブログでは、明治末から光太郎がスケートに興じていたことについて書きました。
 
それでは一方、智恵子はどうだったのでしょうか。
 
智恵子はスケートではなくスキーに興じていたという記録が残っています。
 
平成11年(1999)、『新潟日報』に載った若月忠信氏による「新潟名作慕情 高村智恵子-新潟ゆかりの写真」を参照させていただきます。
 
時に大正2年(1913)1月から2月にかけ、智恵子は日本女子大学校時代の友人、旗野スミ(「すみ」「澄」あるいは「澄子」とも表記)の実家、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島に滞在していました。光太郎との婚約直前です。
 
スミの姉・ヤヱは日本女子大学校で智恵子と同期入学、のちに妹のスミも同校に入学、姉妹で智恵子と交友を深めていました。しかしヤヱは明治40年(1907)に急逝。以後も、スミと智恵子の交友は続きます。そうした中で、智恵子の旗野家逗留が実現しました。
 
ちなみに智恵子の祖父・長沼次助の出自は同じ新潟の南蒲原郡田上町。そのあたりの関わりもあったかも知れません。その後、大正5年(1916)にも智恵子は旗野家を訪れており、その際の写真が残っています。
 
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前列左端が智恵子、後列中央がスミです。
 
旗野家は地元の名家で、当主の美乃里(ヤヱ・スミの兄)は東京専門学校(現・早稲田大学)卒、欧米留学の経験もあり、当地の酪農の先駆者だったそうです。一族には歴史学者、地理学者の吉田東伍、政治家、随筆家の市島春城がいました。上記写真にも吉田や市島の子供が写っています。
 
雑誌『春秋』の昭和52年(1977)4月号に載ったスミの「智恵子回想」から。
 
冬は積雪の多いところで、何尺かはいつも積っておりました。高田に日本ではじめてスキーが来た頃で、兄は冬仕事の足のために男衆を連れて習いに行ってきたのです。もちろん女などやったものではありません。そのスキーを持ち出して、私達はずいぶん滑りました。モンペに赤いセーターを着て。大きな原っぱで人通りもありませんので、私たちの滑っている姿を見かけたあのあたりの人が、バケモノが出るといって騒いだというこっけいなお話もあります。あんまり熱心なので、朝起きると体中が痛み、首が動かないほどでしたが、それでも一冬よくやりました。
 
「高田」云々は、「フリー百科事典ウィキペディア」によれば、
 
1911年(明治44年)1月12日に新潟県中頸城郡高田町(現在の新潟県上越市)において、オーストリア陸軍少佐(オーストリア=ハンガリー帝国時代)のテオドール・エードラー・フォン・レルヒが陸軍第13師団歩兵第58連隊の営庭を利用し、堀内文次郎連隊長や鶴見宜信大尉らスキー専修員に技術を伝授したことが、日本に於ける本格的なスキー普及の第一歩とされている。(これが我が国におけるスキー発祥と言われている。)また、これにちなみ毎年1月12日が「スキーの日」とされている。
 
とのことです。
 
それから3年しか経っておらず、光太郎のスケート同様、智恵子のスキーも、日本人として先駆の部類にはいると思います。しかも女性。さすがにテニスや乗馬、自転車、バスケットボールなどにいち早く取り組んだ智恵子ですね。
 
ちなみに智恵子が新潟でスキーに興じていた頃、光太郎が新潟の智恵子に送った手紙が現存しており、光太郎から智恵子への唯一のラブレターとして、昨年の今日、NHKさんの「探検バクモン」で紹介されました。
 
旗野邸は、併設された吉田東伍記念博物館とともに現存しているとのこと。いずれ行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月6日

昭和29年(1954)の今日、未完のまま絶作となった彫刻「倉田雲平胸像」の制作を開始しました。
 
倉田はその当時既に故人でしたが、「つちやたび」という会社を興した人物です。同社は日華ゴム、月星化成と社名を変え、現在はムーンスター。運動靴メーカーとして有名ですね。