東北レポート最終回です。
 
1/19(日)、花巻を後にして、東北本線でさらに北に向かいました。次なる目的地は岩手郡岩手町。盛岡よりさらに北、青森との県境に近い地域です。
 
昨秋、その岩手町の川口公民館に、光太郎自筆の看板が2枚あるという情報を得まして、見に行ったわけです。
 
昭和27年3月20日の光太郎日記に、以下の記述があります。
 
午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。
 
また、同じく4月29日には
 
川口村立図書館、川口村公民館を板に揮毫、
 
の記述があり、同じく5月10日の日記は以下の通りです。
 
川口村の帷子氏看板2枚受け取りに来る、川魚クキ20尾程ヒエ一升もらふ。
 
ちなみに川口村は昭和30年(1955)には合併で岩手町となっています。
 
盛岡で第3セクターのIGRいわて銀河鉄道に乗り換え、岩手川口駅を目指しました。途中、「渋民」という駅がありましたが、こちらは石川啄木の故郷です。
 
午前10時30頃、岩手川口駅に到着、そこから川口公民館まで歩きました。空は晴れていましたが、雪がちらついていました。
 
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あらかじめお伺いすることを伝えてありましたので、職員の方が待っていて下さいました。早速、木箱に収められた2枚の看板を出していただきました。
 
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上の2枚が「川口村公民館」、下006の2枚が「川口村立図書館」。墨で書かれたものですが、残念ながら、どちらも文字はほとんど読めなくなっていました。
 
裏面の碑陰記的なものは裏面なので墨痕鮮やかに残っていました。ただし、こちらは光太郎の筆跡ではありません。
 
実際に看板として屋外に掲げられ、風雨や雪に晒され続けたため、文字が薄くなってしまったのでしょう。最初の段階で墨ではなく油性の塗料で書くとか、透明なニスなどでのコーティングでもされていればこうはならなかったのだと思いますが、昭和27年当時ではそれも望むべくもなかったのでしょう。
 
しかし、実用されたた結果、文字が薄れたことについては、泉下の光太郎もかえって喜んでいるのではないかと思います。
 
逆に、文字が薄くなったからといって、誰かが上からなぞって濃くするというような乱暴な処置がされていないのは幸いでした。
 
ところで現在、同公民館の玄関には、下の画像の看板が掲げられています。こちらも結構年期が入っています。どうも書体の特徴から、もともとの光太郎の筆跡から「村」を除いて写し取ったもののように思われます。

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「関連する資料があればコピーをいただきたい」と、事前にお伝えしておいたため、2枚の看板を紹介する『岩手日報』さんの記事、公民館移転の際の行事に盛り込まれた故・帷子敏雄氏の談話筆録、昭和30年代に当時の公民館長が書き残した覚え書きなどをいただきました。有り難いかぎりです。
 
さらに、これが最も驚いたのですが、光太郎から帷子氏宛の自筆葉書のコピーもいただきました。4月29日付けで、揮毫が終わった旨の報告でした。『高村光太郎全集』等に未掲載のもので、いずれ当方編集の「光太郎遺珠」(今春発行のものには間に合いません)、当方刊行の『光太郎資料』にてご紹介します。
 
そしてこれも驚きましたが、たまたま公民館に帷子氏のご子息がいらしていましたので、お話を聴くことも出来ました。いただいた資料と合わせ、当時の経緯がよく分かりました。それによると、村の若者が集まっての炉端談義の中で、公民館、図書館の看板を立派なものにしようという提案が出、一流の文化人に書いてもらおうということになったそうです。そして同じ岩手県内に住んでいた光太郎に白羽の矢が立ち、花巻出身の村内教育委員の親類筋のつてで依頼したとのこと。こちらの経緯なども「光太郎遺珠」、『光太郎資料』にて詳述します。
 
かくて予定していた目的は全て終了。岩手川口駅の隣、いわて沼宮内から東北新幹線で帰りました。
 
1泊2日の東北紀行でしたが、いつにもまして実り多い調査行でした。今回も行く先々でいろいろな方々のお世話になり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月24日

昭和16年(1941)の今日、有楽町産業組合中央会間で開催された「講演と朗読-愛国詩の夕」で「詩人の魂」と題して講演を行いました。