前回からの続きです。
 
福島市を後に、再び東北新幹線に乗って、次なる目的地、花巻を目指しました。途中、仙台を過ぎても平地には雪がほとんどありませんでしたが、やがて岩手県内に入ると徐々に雪が積もっている様子が目につくようになりました。新花巻駅に着いた頃は、すっかり白銀の世界でした。
 
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新花巻駅の観光案内的なコーナーでは、光太郎が出迎えてくれました。
 
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普段、花巻に行く時は、北上で東北新幹線から在来の東北本線に乗り換えることが多く、新花巻駅に降り立ったのは久しぶりでした。そのため、こういうコーナーがあることを存じませんでした。
 
新花巻駅から雪道を歩くこと約15分、花巻市博物館に到着しました。
 
 
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こちらでは、企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」が開催中です(2/11まで)。
 
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佐藤隆房は明治23年(1890)、栃木那須の生まれ。千葉医専(現・千葉大学医学部)卒業後、医療施設の少なかった東北での医療活動に従事することを志願、縁あって大正12年(1923)、花巻に花巻共立病院(現・総合花巻病院)を開業しました。
 
地元の有力者だった宮澤家も開院に協力、その関係で賢治晩年の主治医を務め、その最期を看取りました。賢治の詩「S博士に」は佐藤のことを描いたものだそうです。
 
さらに宮澤家の関連で、光太郎とも知遇を得、交流を深めました。宮澤家の意向を受けて既に戦時中に東京で光太郎に会い、花巻疎開を勧めたといいます。
 
光太郎が花巻に来てからは、旧太田村の山小屋に移る前、一時、自宅の離れに光太郎を住まわせたり、その後も折に触れ、行き来をしていたりしました。
 
光太郎歿後は財団法人高村記念会を創設、花巻での顕彰活動を牽引し、昭和54年(1979)歿。現在は子息・進氏が理事長を務めています。
 
企画展では佐藤の生涯と業績をたどる品々の他、賢治の草稿や光太郎の揮毫、彫刻なども展示されていました。一見の価値はあります。ぜひ足をお運びください。
 
その後、新花巻駅に戻り、そこから無料送迎バスでその日に泊まる鉛温泉藤三旅館に向かいました。そちらについてはまた明日。
 

 
BS-TBS 2014年1月25日(土)  21時00分~21時54分
 
「阿多多羅山(あだたらやま)の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。」
安達太良山は、高村光太郎の『智恵子抄』に歌われたことで広く知られるようになりました。
 
南北9キロに渡って連なる安達太良連峰のひとつで、標高は1700メートル。なだらかに美しい稜線を引き、山頂には突き出た岩峰があるため遠目には女性の乳房のようにも見え、別名「乳首山(ちちくびやま)」とも言われています。
 
智恵子のふるさとの山であり、また、そのたおやかな山容から女性的なイメージを持たれる山ですが、実際に登って見るとまた別の姿を見せます。北西からの季節風が遮られることなく吹き付けるため、この時期の稜線は突風が吹き荒れます。また、連峰の山頂部には大きな火口跡があり、荒々しい景観が広がっています。安達太良山は火山活動によって生まれた山で、最近では明治時代に爆発を起こしています。
 
厳冬期の安達太良山を雪山初挑戦の女優の春馬ゆかりさんが目指します。雪の状態を見極め、アイゼンとスノーシューを履き替えながらの山行となりました。
 
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さすがに標高1700㍍の山ですね。ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月21日

昭和3年(1928)の今日、丸の内中央亭で開かれた第一回詩人協会総会に出席しました。
 
この席上、光太郎は年鑑編纂委員、評議委員を引き受けたそうです。同年6月には実際に『詩人年鑑1928』がアルスから刊行されました。
 
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いわゆる詩壇の大御所とは深いつきあいをしなかった光太郎ですが、この「詩人協会」はどちらかというと若い詩人を中心に結成されたもので、この時期の光太郎は若い詩人達にカリスマ的存在と見られていました。
 
しかし、その活動は長くは続かず、昭和6年には解散してしまいます。年鑑も1回限りの刊行でした。