今日からしばらく、土・日と1泊2日で出かけて参りました東北地方のレポートをいたします。
まずは福島駅で東北新幹線から福島交通飯坂線に乗り換え、美術館図書館前駅(ある意味すごい駅名ですね)で下車、福島県立図書館に参りました。
最近は、ほとんどの図書館で、居ながらにしてインターネットで蔵書のキーワード検索等が可能です。以前に同館の蔵書を「智恵子」のキーワードで検索してみたところ、当方の足しげく通う首都圏の図書館、文学館等にはないものが何件かあぶり出されました。やはり地方で刊行されたものなど、その地方でしか所蔵されていないものが多いのです。
また、最近はレファレンスサービスも充実しており、現地に足を運ばなくても「××という書籍の○○に関する部分のコピーを送って欲しい」というお願いをして送っていただくことも可能です。ただ、内容がしっかり分かっていないと無駄なものを手に入れることになったり、手続きが煩瑣だったりします。親身になって資料探しをして下さる館も多いのですが、逆に中にはあからさまに面倒がったり、簡単な話が通じなかったりする館もあり、不愉快な思いをしたことも一度ならずあって、だったら「レファレンス受け付けます」などと謳うな、といいたくなります。やはり可能であれば現地に行って、自分の目で資料を確かめるのが一番ですね。
そういうわけで、以前にあぶり出した未見の資料を閲覧し、必要な部分は複写して参りました。その中で、特に『財団医療法人明治病院百年のあゆみ』(平成24年=2012)という書籍は凄い、と思いました。美術館などの企画展図録のような体裁で、200頁弱あり、しかもオールカラーです。
明治病院は、福島市内で開業している個人病院で、創立は明治43年(1910)。創設者幡英二の妻・ナツは二本松の隣・本宮町の出身で、日本女子大学校での智恵子の先輩にあたります。同書では随所に幡夫妻と智恵子との関わりが記述されています。
智恵子は卒業後も女子大が運営する寮に住み続けていましたが、明治42年(1909)に突如その寮が閉鎖されることになりました。その際に、途方に暮れる智恵子に手をさしのべたのがナツと、さらにすでにナツと結婚していた幡です。二人は二人が当時暮らしていた駒込動坂町の日本画家・夏目利政の家に智恵子を住まわせてくれました。下の写真は夏目家で撮影されたもの。左端が幡英二、一人おいて智恵子、右端がナツです。
他にも、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻の口絵に使われている、幡夫妻と、息研也氏と一緒に撮った写真もあります。
幡夫妻は同じ年に福島に戻り、明治病院を開院しますが、その後も智恵子との交流は続き、智恵子も何度か明治病院を訪れたそうです。智恵子は明治45年(1912)4月に開かれた太平洋画会の展覧会に「雪の日」「紙ひなと絵団扇」の2枚の油絵を出品しましたが、このうち「雪の日」は、同年2月に明治病院に滞在した折りに、同院の中庭を描いたものではないかという説があるそうです。
さらに同書によれば、この当時の中庭や建物がまだ残っているとのこと。これはやはり現地を見なければ、と思い、県立図書館を後にし、明治病院を目指しました。実は行く前からネットで有る程度の情報を得ており、場合によっては現地に行くつもりだったので、予定の行動でした。
福島駅から歩くこと約10分、受付の方に来意を告げると、「それでは事務部長を呼びます」とのことで、出ていらしたのはなんとナツの曾孫に当たるという幡哲也氏でした。快く問題の中庭を見せて下さり、いろいろレクチャーもして下さいました。
東日本大震災の折には灯籠が倒れたり、それ以前にも少し手を入れたりということがあったそうですが、基本的に智恵子が訪れた当時のままだとのこと。感慨深いものがありました。
帰り際、ダメ元で「『明治病院百年のあゆみ』はまだ残っていますか?」と訪ねたところ、なんと、一冊いただけてしまいました。非売品なので手に入れようと思ってもなかなか手に入るものではありません。実にありがたい限りでした。
早速、福島からさらに北上する新幹線の車中で詳しく読んでみたところ、東日本大震災がらみの記述も多くありました。
震災当時は外来診療中でしたが、壁に亀裂が入るなど、建物が危険かも知れないという判断で、職員、患者さんたちすべて広い駐車場に移動したところ、一人の妊婦さんの陣痛が始まってしまったそうです(同院は元々産科医院)。そして、駆けつけたご主人の車の中で無事出産したそうです。
それにしても、震災からもうすぐ3年になりますが、福島もまだまだ復興途上ですね。街頭ではこんな署名活動をやっていました。
除染作業中の場所もありましたし、下記のステッカーもまだあちこちに掲示されています。
当方のいろいろな活動が、少しでも復興支援になればと念じております。
明日は花巻のレポートを。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月20日
昭和15年(1940)の今日、朝日新聞本社で行われた「朝日賞贈呈式並に記念講演会」で、「「和気清麻呂公」銅像について」の題で講演をしました。
この年の朝日賞受賞者は以下の通りです。
石原忍 | 色盲検査表の研究 |
川合玉堂 | 絵画「彩雨」 |
佐藤清蔵 | 銅造「和気清麻呂公像」 |
滝精一 | 「国華」による東洋美術文化の宣揚 |
柳田国男 | 日本民俗学の建設と普及 |
山田耕筰 |
交響楽運動と作活動
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このうち佐藤清蔵は光雲の孫弟子にあたり、かつては「朝山」と号していましたが、師匠との不仲から、この時期は本名の「清蔵」を名乗っていました。さらに後に「玄々」という号も使用します。日本橋三越の巨大彫刻が有名です。
「朝山」時代の作品がいくつか、光太郎とほぼ同時期ということで、昨年各地で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」で参考出品されました。
さて光太郎の講演。新聞報道に「高村光太郎氏が品格の高い清浄さの感じられる名作と絶賛」とある程度で、具体的な内容の筆録等が確認できていません。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
「和気清麻呂」銅像は大日本護王会と清麻呂公銅像建設期成会が銅像作成を計画し、朝倉文夫、北村西望、佐藤清蔵の三人によるコンペが行われ(朝倉はコンペと知らず途中で辞退)、佐藤の作品が選ばれました。今も東京メトロ竹橋駅近くにあるそうです。