昨日は斯界の第一人者、高村光太郎記念会事務局長であらせられる北川太一先生を囲んでの新年会にお招きいただきまして、参加させていただきました。
主催は北川先生が都立向丘高校に勤務されていた頃の教え子の皆さんである「北斗会」さん。何人かの方は連翹忌にもご参加下さっていますし、一昨年、昨年と、8月に宮城・女川で開催されている「女川光太郎祭」にも足を運ばれています。
会場は東大前のホテルフォーレスト本郷さん。そちらのレストランを借り切って、30名ほどの参加でした。
今年は北川先生から年賀状が来ず、お加減がよろしくないのでは? と心配しておりましたが、昨日、宴席の名札を兼ねた形で直接いただきました。
「美し国 迅く甦れ うまの年」。「美(うま)し」は万葉の時代から使われている語で、満足すべき状態、十分で申しぶんない、といった意味ですね。今年の干支の「午(うま)」と「うまし」をかけてらして、ウマいと思いました。
北斗会の皆さんは、教え子とは言う条、終戦直後、新制高校になってすぐの頃に高校生だった80代の方もいらっしゃり、70代の方がご挨拶の中で「私ごとき若輩者が……」とおっしゃっていました。ある意味凄い世界です。
北川先生の奥様、ご子息、また、向丘高に勤務されていた方々もご参加されました。その中のお一人、北川先生の御同僚だった高原二郎氏は、『有島武郎全集』の編者。同時期に有島研究、光太郎研究それぞれの泰斗が机を並べられていたという、これもまたある意味凄い世界です。
ちなみに当方の学生時代の恩師も有島研究者ですので、もしやと思ってお訊きしてみたところ、ツーカーの仲だそうで、世間は狭いな、とも思いました。
世間は狭い、といえば、昨日、一昨日のこのブログにご登場いただいた高村光太郎研究会主宰の野末明氏も向丘高勤務経験がおありだということで、会に参加されていました。そうとはつゆ知らず、『高村光太郎研究』の原稿を郵送してしまいました(笑)。
こちらの新年会は午後1時からでしたので、午前中は会場にほど近い谷根千エリアを歩きました。明日のブログにてレポートいたします。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月12日
昭和10年(1935)の今日、雑誌『上州詩人』第17号にアンケート「上州とし聞けば思ひだすもの、事、人物」、書簡が掲載されました。
10年ほど前に群馬県立土屋文明記念文学館様のご協力により見つけました。光太郎、こうした地方の同人誌的なものに作品を発表する機会が多く、なかなかその全貌がつかめません。
書簡はこの前年『ボオドレエル詩抄』を刊行した同人の松井好夫に宛てたものです。