昨日の【今日は何の日・光太郎 補遺】でご紹介した「高村光太郎研究会」発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、当方、連載を持たせていただいております。
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
平成18年(2006)に、北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、現在は「高村光太郎研究会」発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形になっております。
年刊誌の連載ですので、ほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成ですが、次から次へと見つかり続け、気がつけば9年目です。
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿、昨日、研究会代表の野末明氏にデータとプリントアウトしたものを郵送しました。
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。
散文
「ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た」
大正六年二月二日『東京日日新聞』
「帽子に応用したアイリツシユレース」 大正十三年四月一日『婦人之友』第十八巻第四号
「倫理の確立」 昭和十五年七月一日『東亜解放 日本版』第二巻第七号
「彫刻について」 昭和十五年九月一日『新制作派』第五号
「ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た」
大正六年二月二日『東京日日新聞』
「帽子に応用したアイリツシユレース」 大正十三年四月一日『婦人之友』第十八巻第四号
「倫理の確立」 昭和十五年七月一日『東亜解放 日本版』第二巻第七号
「彫刻について」 昭和十五年九月一日『新制作派』第五号
書簡
平櫛田中宛 津田青楓宛 室生犀星宛 上田静栄宛(6通) 高祖保宛
伊藤祷一宛(2通) 岩田シゲ宛 鈴木政夫宛 池田克己宛 田口弘宛
平櫛田中宛 津田青楓宛 室生犀星宛 上田静栄宛(6通) 高祖保宛
伊藤祷一宛(2通) 岩田シゲ宛 鈴木政夫宛 池田克己宛 田口弘宛
翻訳
「死者」(ヴェルハーレン) 大正十四年二月一日『虹』第二巻二月号
「死者」(ヴェルハーレン) 大正十四年二月一日『虹』第二巻二月号
2015/1/9追記 この「死者」は訳詩集『天上の炎』の一篇として、『全集』第十八巻に収録されていたため、抹消します。
アンケート
「口語歌をどう見るか(批判)」 大正十四年一月一日『芸術と自由』第一巻第八号
「新婚旅行通知状(葉書回答)」 昭和十一年十一月一日『婦女界』第五十四巻第五号
「昭和二十二年に望む事」 昭和二十二年一月一日『人間』第二巻第一号。
「口語歌をどう見るか(批判)」 大正十四年一月一日『芸術と自由』第一巻第八号
「新婚旅行通知状(葉書回答)」 昭和十一年十一月一日『婦女界』第五十四巻第五号
「昭和二十二年に望む事」 昭和二十二年一月一日『人間』第二巻第一号。
雑纂
「高祖保宛『をぢさんの詩』献辞」 直筆
「高村光太郎氏の話」 昭和二十五年十一月三日発行『山形新聞』
「‶詩だけはやめぬ″」 昭和二十七年十一月十日『朝日新聞』
「高祖保宛『をぢさんの詩』献辞」 直筆
「高村光太郎氏の話」 昭和二十五年十一月三日発行『山形新聞』
「‶詩だけはやめぬ″」 昭和二十七年十一月十日『朝日新聞』
座談
「第二回研究部座談会」 昭和十五年三月二十日発行『九元』第二号
「第二回研究部座談会」 昭和十五年三月二十日発行『九元』第二号
短句
「世界はうつくし」 直筆
「世界はうつくし」 直筆
参考資料
「東京仮装会」 印刷案内状
「東京仮装会」 印刷案内状
我ながらよく見つけたものだと思います。しかし、当方一人の力ではここまで見つかりません。「こんなものを見つけた」と教えていただいたり、他の方の書かれたものの中から「光太郎がこんなものを書いている」という記述を見つけたりで、これだけ集まっています。ご協力、ご教示いただいた皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
また、刊行物であれば、それらを所蔵し、閲覧の用に供して下さっている図書館、文学館さまのご協力も欠かせません。こちらにも感謝です。さらには書簡を所蔵され、情報を提供して下さった個人、団体の皆様にも。
さて、『高村光太郎研究』。先述の通り、4月2日の光太郎忌日・連翹忌に刊行予定です。ご入用の方はご連絡いただければ仲介いたします。このところ、頒価は税込み1,000円ですので、今年も同じだと思います。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月11日
昭和59年(1984)の今日、光太郎と交流のあった山形出身の詩人、真壁仁が歿しました。
昭和59年(1984)の今日、光太郎と交流のあった山形出身の詩人、真壁仁が歿しました。
戦時中、空襲による焼失を避けるため、亡き智恵子が残した千数百枚の紙絵を、光太郎は3箇所に分けて疎開させました。そのうちの1箇所が真壁の元で、真壁は戦後しばらくの間もそれを預かり、昭和24年(1959)に山形で開催された初の智恵子紙絵展では、この中から作品が選ばれました。