南関東は昨日まで3日ほど雨や雪が続き、都心でも初雪を観測したそうです。が、基本的に冬の関東は乾燥したカラカラ陽気で、火災が発生しやすい状態です。
111年前の今日、光太郎も火災に泣かされました。
【今日は何の日・光太郎】 12月21日
明治35年(1902)の今日、駒込林町155番地の光雲宅に作った光太郎アトリエが火災で焼失しました。
東京美術学校彫刻科を卒業した年で、まだ光雲宅に同居していた時代の話です。この年の3月に、一部を光雲と共用する形で、自宅敷地内にアトリエを建ててもらったのですが、わずか1年足らずで燃えてしまいました。
以下、その直後に光太郎の書いた「工場失火についてのおぼえがき」から。
明治三十五年十二月二十一日午前三時半彫塑室焼失し参考品書籍類及雑具悉皆烏有に帰せり。
源因は暖炉の落し灰なるべし。
彫塑室はこの三月の新築に係り、三間に四間の土蔵造りにして北に明取りの窓あり、来年博覧会に出品すべき油土の原型も製作中のこととてまたこの内にありしが皆燃え果てたり。
以下、「おぼえがき」ということで、火事見舞いに来てくれた人々の名前等が列記されています。
光太郎の弟の豊周による『定本光太郎回想』(昭和47年=1972)にも記述があります。
外から火を被っても中の物は安全にして置きたいという配慮から土蔵造りになって居り、天井はガラス張りで明りをとる、当時としては立派ないいアトリエだったのだが、春に出来て十二月には燃えてしまったのだから、ほんのわずかな寿命だったし、家としては莫大な損害だった。
普請の時に残っていた縁の下のカンナ屑に、ストーブの残り火がうつり、発見した時にはすっかり火の手がまわって、危くて入れない。近所にあった大阪屋という下宿の主人が火事なれている人でよく働いてくれたりして、ようやく火は消しとめたけれど、とうとう中のものは、父や兄の作品をはじめ一物も持ち出さずに灰になってしまった。焼跡の灰を兄はいつまでも掘り返して、未練深く参考写真の使えそうなのを丁寧に探し出していたのだが、いかにも気の毒だった。この失火の時の覚え書が兄の手で残されていて、全集十一巻に入っている。アトリエは取り壊され、そのまま建て直されなかった。
現在、写真だけは残っている初期の彫刻「仙」「まぼろし」などは、この時に燃えてしまったと推定されます。画像はこの年3月に発行された美術学校生徒の作品写真集『第弐回彫塑生面』から取りました。
火災には気をつけたいものです。