先月、十和田の皆様を東京千駄木の高村家、そして高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生のお宅にご案内しました。
 
その時の話、それからそれを十和田市長に報告したという件が彼の地で報道されたそうです。
 
高村家、北川邸訪問については、青森テレビの川口浩一氏の書かれた文章が『毎日新聞』さんに載りました。
 
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市長への報告については『東奥日報』さん。
 
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全文ご紹介します。
 
今年で建立60周年を迎えた十和田湖畔の「乙女の像」について調査研究に取り組んでいる十和田市の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会が11月中旬、制作者・高村光太郎のおいや光太郎研究の第一人者を訪ね、乙女の像にまつわるエピソードを聞いた。会のメンバーは27日、十和田市役所を訪れ、小山田久市長に調査成果を報告、像に込められた光太郎の思いなどを次世代に伝えていく決意を示した。
 
 乙女の像は、詩人で彫刻家の高村光太郎が制作した1対のブロンズ裸婦像。十和田湖を広く世に紹介した文人・大町桂月、当時の県知事・武田千代三郎、地元村長・小笠原耕一の3氏の功績をたたえ、国立公園指定15周年を記念して1953(昭和28年)に県が建立した。
 会のメンバーは11月15日、光太郎のおいに当たる高村規さん(83)=東京在住=と、光太郎全集を編集した研究者・北川太一さん(88)=同=を訪問。両氏は、乙女の像が前のめりの2体により無限性を意味する三角形を構成していることや、光太郎自身は「十和田のための裸婦群像」と呼んでいたことなどを指摘した。
 また、妻・智恵子がモデルになったとの定説については、北川さんは「必ずしもそうではない」とした上で、「裸婦群像は、3人の功労者への思い、平和への祈り、十和田の深く美しい自然から世界に向けて発信する、命をつなぐ愛と救済のシンボル。生身の智恵子でもない、もっと永遠のもの」と解説したという。
 さらに、光太郎が家族から「みつたろう」と呼ばれていたが、父・光雲と彫刻上の意見が合わず、反抗心から意識して「こうたろう」の名を使い続けたこと、智恵子の本名はカタカナの「チヱ」であることなど、新たな発見があった。
 訪問調査に参加した吉崎明子さん(73)は「十和田湖の自然を大切にした光太郎の思いをあらためて知ることができた」と話し、同会の小笠原哲男会長(84)は「今後、調査結果などをマンガにして子供向けのガイド本を発刊し、次の世代に伝えていきたい」と話した。
 
「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんのサイトには、この記事についての記述があります。
 
また、市のホームページでしょうか、こちらのサイトには市長への報告について記載されています。
 
今後も光太郎顕彰の拠点の一つとして、十和田の皆さんには頑張っていただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月9日

明治33年(1900)の今日、与謝野鉄幹晶子夫妻の新詩社茶話会に出席、初めて多くの新詩社同人と顔を合わせました。