一昨年の東日本大震災から、今日で1,000日だそうです。
そういうわけで、今朝の『朝日新聞』さん紙上では関連記事がたくさん載っていました。
そんな中で、教育面でも震災がらみの連載がスタートしました。題して「千年後の命のため」。昭和6年(1931)に光太郎が訪れた宮城県女川町からのレポートです。
実は、先月末にも以下の記事が載り、今日明日じゅうには紹介しようと思っていましたので、タイムリーでした。
津波の記録、石碑に刻む 「100円募金」で建立 宮城・女川中3年生
「千年後の命を守るために」と刻まれた石碑が、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の女川中学校に建てられ、23日に除幕式があった。震災を記録に残そうと、同中の3年生66人全員で建てた。町内にある全21カ所の浜の津波到達点の上に建てる計画で、同校の碑は1基目になる。
津波が流し去った町中心部を一望できる同校での除幕式。「今、女川町は、どうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています」。3年生の鈴木智博君が、自分たちで考えた碑文を朗読した。
3年生は入学後最初の社会科の授業で、「ふるさとのために出来ること」を考え始めた。11年冬には(1)高台へ避難できる町づくり(2)助け合える絆づくり(3)震災を記録に残す――の三つの津波対策を練り上げた。
石碑は記録に残す具体策の一つ。約1千万円の費用は、今春から3年生が町内外で「100円募金」を呼びかけて集めた。3年生の木村圭さんは「活動は始まったばかり。千年先まで石碑を残すよう伝えなければ」と話した。(小野智美)
8月にこのブログでご紹介した、女川中学校さんでの「いのちの石碑」建立プロジェクトに関する記事です。
子供たちの書いた「企画書」がこちら。
平成3年(1991)に女川に立てられた光太郎文学碑が「100円募金」によって作られたことにつながっています。その碑を建てるために奔走し、あの日、津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣さんの魂が根づいています。
当会としてもささやかながら出資しました。とはいいながら、1,000万円を募金で集めるのは無理なんじゃないか、と思っていました。しかし、あにはからんや、集まったそうです。この国の人々の優しさ、潜在的に持っている力というものを実感させられました。
そして今日から教育欄で始まった連載。このプロジェクトの軌跡が描かれるそうです。
記事は『朝日新聞』さんのデジタル版でも読むことができます。ただ、長いので全文を読むには会員登録が必要です。
一部を抜粋させていただきます。
国語の授業で1年生の時から作ってきた俳句から碑に刻む21句の候補を求め、短文や長文のメッセージの案も募集した。
それから5日後の放課後。記録班の4人が教室に残った。班長の阿部由季さん(15)、須田美紀さん(15)、勝又愛梨さん(14)と鈴木君。メッセージを練り上げるためだ。
阿部さんが、文言の案を見ながら「『あの苦しみ悲しみをもう二度と繰り返さないために』を入れたら」と切り出した。
須田さんは「冒頭に由季ちゃんの『これから生まれてくる人たちに』をつけよう」と即座に返した。
別の生徒の文も読み上げた。「大地震が来たら上に逃げてください。家にとどまる人がいたら……」。その先を阿部さんが引き取って「なんとしても引っぱり出しましょう」。
鈴木君も大きな声で加わった。「なんとしても連れ出してください。ぜったいに引きずりだしてください」
3人の活発なやりとりを聞いていた勝又さんが、小さな声で言った。「家に戻ろうとする人は、絶対に引き留めてください」。メッセージには、この言葉も使うことになった。
この放課後の時間を勝又さんは忘れられない。
「千年後まで残すための大事な話し合いだったから」
鈴木君は、実行委員長として各地で募金を呼びかけてきた。今も見たくはないあの日の写真をスクリーンに映し、説明に立っている。あの日を突きつけられる質問にも嫌な顔を見せたことはない。「千年後の命を守りたい」。その一念だ。
【碑文要約】 これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみをあわせたくない! その願いでこの碑を建てました。絶対に移動させないでください。大地震が来たらこの碑より上へ逃げてください。逃げない人は無理やりでも連れ出し、家に戻ろうとする人は絶対に引き留めてください。今、女川町はどうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
恥ずかしながら涙がこぼれてしまいました……。
当方、8月9日に行われている女川光太郎祭に参加しております。来年の光太郎祭の折には(機会があればもっと早く)この碑を見てこようと思っています。
ぜひ皆さんも足をお運び下さい。
【今日は何の日・光太郎】 12月4日
明治27年(1894)の今日、光太郎の妹・よし(喜子)が誕生しました。
昭和20年(1945)4月、空襲で駒込林町のアトリエを焼け出された光太郎は、翌月に花巻の宮澤賢治実家に移るまで、近所にあったよしの婚家である木彫家・藤岡幾の家に身を寄せていました。