先月のこのブログに少し書きましたが、JR東日本さんが提供する会員組織、大人の休日倶楽部会員向け雑誌の12月号で光太郎が取り上げられ、このほど発行されました。
『大人の休日倶楽部ジパング』『大人の休日倶楽部ミドル』の2誌で、共通の連載コラム「一枚の手紙から」というページです。毎回、近代の文学者が書いた手紙を一通ずつ紹介しています。今月号が光太郎というわけです。
取り上げられているのは明治44年(1911)、画家の津田青楓に送った葉書で、現物は花巻の財団法人高村記念会さんで所蔵しています。
文面は以下の通り。
僕は北海道へ行く。
『琅玕洞』はよす。つぶす。
又今にやればやる。
芸術家もよす。つぶす。
又今にやればやる。
これだけだと、何のことやら……という感じですね。そこで、この時期の光太郎の動向をざっくりと解説します。
光太郎は明治42年(1909)、彫刻をはじめ、最新の芸術に対する眼を開かされた3年余の欧米留学から帰国しますが、帰ってきた日本は旧態依然。父・光雲を頂点とする古い日本彫刻界と相容れず、対立を余儀なくさせられます。
翌明治43年(1910)には、自らの生活のため、また、志を同じくする芸術家仲間の作品を世に知らしめるため、神田淡路町に日本初といわれる画廊を開きました。それが「琅玕洞(ろうかんどう)」です。名前の由来は、アンデルセン作・森鷗外訳『即興詩人』の中に出てくるイタリア・カプリ島の観光名所から。これは現在では「青の洞窟」というのが一般的です。
右の画像が「琅玕洞」。藤井達吉現代美術館さん刊行の『藤井達吉のいた大正』から引用させていただきました。
琅玕洞では柳敬助や斎藤与里、浜田葆光などの個展を開催したり、藤井達吉の工芸作品や与謝野夫妻の短冊などを販売したりし、それなりに好評を得たのですが、経営的にはまるで成り立たず、わずか1年で閉鎖。画家の大槻弍雄(つぐお)に譲渡されます。光太郎は、というと、北海道に渡り、酪農のかたわら、彫刻や絵を作ろうと考えました。ただ、実際に北海道札幌郊外の月寒まで行ってみたものの、少しの資本ではどうにもならないと知り、すぐに帰京しています。下記は月寒種羊場。戦前の絵葉書です。
今回『大人の休日倶楽部』さんで取り上げられている葉書は、琅玕洞を手放し、北海道へ渡る直前のものです。
墨書の荒々しい筆致、詩のような文面、紙面にあるとおり「旧体制のしがらみを捨てて新天地で生きる決意表明」が一種、悲壮感さえ漂わせながら伝わってきます。
ところで今回の記事、花巻の高村記念会さんを通じて協力要請があり、実際に執筆されるライターさんに当方自宅兼事務所までお越しいただき、上記のこの当時の背景などについてレクチャーいたしました。そのため記事の下部キャプションには「取材協力」ということで名前が載っています。ありがたいことです。
ちなみに「大人の休日倶楽部」さんのホームページでは、来年・2014年版のカレンダーの無料ダウンロードサービスを行っています。JR東日本さんなので、12ヶ月分、東日本の観光地の水彩画でいろどられ、いい感じです。
で、1月がいきなり十和田湖。
湖畔には高村光太郎作の「乙女の像」をはじめ、十和田ビジターセンターや温泉など、様々な施設が点在している。毎年2月に開催される「十和田湖冬物語」では、雪像やかまくらなどはもちろん、夜を彩る冬花火も打ち上げられ、冬ならではの幻想的で美しい十和田湖を楽しむことができる。
というキャプションが入っています。
ご活用下さい。
【今日は何の日・光太郎】 11月29日
昭和44年(1969)の今日、早稲田大学文学碑と拓本の会編『宮澤賢治高村光太郎の碑』が二玄社から刊行されました。
A5判64ページ。この当時、全国に建てられていた賢治と光太郎の文学碑を写真入りで紹介するものです。
この時代の大学生は渋い調査をしていたのですね。