鋳金家で人間国宝の齋藤明氏の訃報が出ました。 

鋳金作家の人間国宝、齋藤明さん死去

 齋藤明さん(さいとう・あきら=鋳金作家、人間国宝)が16日、老衰で死去、93歳。通夜は20日午後6時、葬儀は21日午前10時30分から東京都練馬区春日町4の17の1の愛染院会館で。喪主は長女愛子(あいこ)さん。
 父の指導を受けて伝統的な金属の鋳造技術を習得。伝統を踏まえながら近代感覚にあふれる造形を追求し、1993年に重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。
(朝日新聞)
 
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文中にある「父」は齋藤鏡明(きようめい)(明23=1890~昭13=1938)。東京・巣鴨で鋳物工房を営む鋳金家でしたが、明氏18歳で他界。以後、明氏は父の弟子や友人等の指導を得て研鑽を積んだそうです。
 
昭和24年(1949)に、光太郎の弟で無題やはり鋳金家の高村豊周の工房に入り、主任として実績を積み上げ、平成5年(1993)には重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されました。
 
その間、光太郎の塑像の鋳金をたくさん手がけ、長野・碌山美術館や花巻の高村光太郎記念館に収められている光太郎作品は、ほとんど氏の鋳造になるものです。したがって、現在愛知碧南の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に並んでいる作品にも、氏が鋳造なさったものが含まれています。また、十和田湖畔の裸婦像の修復等にもあたられました。
 
昨年の連翹忌ではスピーチをしていただき、今年の連翹にも元気にご参加くださいました。また、その席上で「以前、こんな講演をしました」ということで、平成9年(1997)5月15日、花巻の高村山荘で行われた第40回高村祭記念講演の筆録を渡されました。題して「高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり」。
 
一読して、美術史上、非常に貴重な記録であると確信し、当方の刊行している冊子『光太郎資料』の今年10月発行分(第40集)に収録させていただきました。ご希望の方には送料のみでお分けしています。下記コメント欄等からご連絡下さい。
 
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
実は、気がつくのが遅れて紹介しなかったのですが、今年3月には日本詩人クラブ会長を務められた詩人の寺田弘氏、6月にはやはり鋳金家の西大由氏と、相次いで生前の光太郎を知る方が亡くなっています。
 
寺田氏は光太郎が序文を書いた「傷痍軍人詩集」(昭和18年=1943)の編集にあたったり、光太郎とともに座談会に参加したりしています。
 
昭和20年(1945)4月、空襲で駒込林町の光太郎アトリエが炎上した時に真っ先に駆けつけたのが寺田氏だそうで、その時の回想が昨年刊行された『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載されています。
 
西氏は高村豊周の弟子にあたる鋳金家。かつて行われていた造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」を昭和38年(1963)に受賞されました。
 
花巻の光太郎山荘近くに立つ「雪白く積めり」、成田三里塚に立つ「春駒」、群馬草津に立つ「草津」などの光太郎詩碑パネルの鋳造を手がけたのも西氏です。

 
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併せてご冥福をお祈り申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月20日

明治43年(1910)の今日、日本橋大伝馬町の三州屋で開かれたパンの大会に世話人として参加しました。
 
この時には有名なエピソードが二つありました。
 
まず一つ、光太郎が長田秀雄、柳敬助の入営祝の幟(のぼり)に黒枠を書きました。この出来事は『萬朝報』に「非国民」と叩かれ、「黒枠事件」と称されました。光太郎自身は深い意図はなかったとうそぶきましたが、本当はどうだったのでしょうか。
 
もう一つ、この頃光太郎が「モナ・リザ」と呼んで入れあげていた吉原河内楼の娼妓・若太夫に、作家の木村荘太がそれと知ってちょっかいを出し、さらに光太郎を挑発、決闘になりかけました。谷崎潤一郎は木村に味方し、介添えに付いてやると息巻いたそうですが、その場になってみると何も起こりませんでした。光太郎はそういうこともあるだろうと若太夫をあきらめ、木村は自分の子供っぽい行為を反省。しかし若太夫は木村を選びました。