【今日は何の日・光太郎】 11月19日
 
大正10年(1921)の今日、智恵子とともに新詩社房州旅行に参加しました。
 
というわけで、今回は「今日は何の日・光太郎」ネタで。
 
同じ大正10年11月に雑誌『明星』が復刊、光太郎はその復刊号に長詩「雨にうたるるカテドラル」を発表したのを皮切りに、昭和2年(1927)の再びの終刊まで、詩、短歌、翻訳、散文、時には素描も発表し続けました。
 
その『明星』発行元の新詩社としての一泊旅行があり、光太郎智恵子も参加しています。他には与謝野鉄幹・晶子夫妻、歌人の平野万里、詩人の深尾須磨子、版画家の伊上凡骨、文化学院の創立者・西村伊作、画家の石井柏亭などが同道しています。19日には現在の館山市北条に泊まり、翌日、同じ館山の那古、現在の南房総市白浜などを巡って帰ったとのことです。
 
昭和41年(1966)に書かれた深尾須磨子の「高村智恵子」という散文に、この時の回想が書かれています。ただ、半世紀近くを経て書かれたものなので、時期などに若干の記憶違いがあるようで、深尾はこの旅行を「たしか大正十一年早春だつた。」としています。光太郎智恵子関連でも、古い文献はこの旅行を深尾の回想を元に大正11年としていますが、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻の年譜などでは大正10年になっています。
 
それはともかく、この時期としては数少ない智恵子の様子が描かれていますので、引用しましょう。ちなみに深尾と智恵子、この旅行が初対面でした。
 
 翌日は午後の出発まで、うららかな日ざしのなかを、めいめい思いおもいに、なぎさからなぎさを伝つて歩いた。私のかなり前方に光太郎のうしろ姿があり、そのまたはるかな前方に智恵子のうしろ姿があつた。よく見ると、砂に足をとられながらも、智恵子は前へ前へとぐんぐん歩いていくのだつたが、その早いこと、彼女を呼ぶ光太郎のほうは振りかえりもせず、まるでなにかに追いすがるように、飛鳥の早さで遠ざかつていく智恵子の姿をみつめつつ、私は一種異様な予感めいたものを覚えずにはいられなかつた。
 その智恵子が帰りの車中では私のとなりに座つたので、なにか話しかけたいような気持ちにかられたが、わざと黙つていた。やがて智恵子がとぎれがちに私に声をかけた。彼女がいつたのは、良人に死別してまもない私へのいたわり言葉ではなく、孤独がほんとうの人間の姿だから、というようなつきつめたものだつた。ちなみに、そのときの旅装といえば、晶子が洋装、私とあや(注・西村伊作長女)も洋装、智恵子は黒つぽいきものを着ていた。
 
智恵子が統合失調症を発症したのがいつか、正確なところはわかりません。昭和6年(1931)夏、『時事新報』の依頼で光太郎が三陸方面へ約1ヶ月の旅行に出ている間に訪ねてきた智恵子の母と妹が、智恵子の異状に気づいたといわれています(自殺未遂はさらにその翌年)が、それ以前からその兆候があったとしても不思議はありません。
 
少なくとも深尾はその10年前の智恵子に、すでに異様なものを感じていたのです。
 
光太郎自身も、昭和15年(1940)に書かれ、詩集『智恵子抄』にも収められている「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)という散文の中で、次のように語っています。
 
だが又あとから考へると、私が知つて以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩ずつ進んでゐたのだとも取れる。その純真さへも唯ならぬものがあつたのである。思ひつめれば他の一切を放棄して悔まず、所謂矢も楯もたまらぬ気性を持つてゐたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児のそれのやうであつたといつていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。言ふことが出来れば彼女はすべて異常なのであつた。私が「樹下の二人」といふ詩の中で、

ここがあなたの生れたふるさと
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。

と歌つたのも此の実感から来てゐるのであつた。彼女が一歩ずつ最後の破綻に近づいて行つたのか、病気が螺旋のやうにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなつてからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくようになつたのであつて、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはいなかつた。つまり彼女は異常ではあつたが、異状ではなかつたのである。
 
さらに深尾の回想では、次のようなエピソードも語られます。
 
 二度目に智恵子に会つたのは、昭和五、六年のころ、本郷駒込の光太郎のアトリエをおとずれたときのことだつた。そのころ、ある新聞社から、婦人欄の文化批評を担当するようにと、社長みずから足を運んでの再三の懇望がことわりきれず、さりとて引受ける気にもなれず、思いあまつたあげくのはて、ふと、わんぱく呼ばわりされていた光太郎のことを考えつき、ずばりその裁断にまちたいと、近よりがたい気持ちをおさえて出かけたわけである。
 入口のとびらの右手にのぞき窓があり、そこから訪問客のだれかをたしかめ、来意をきいたうえでとびらをあけるという順序どおり、智恵子が私を迎えいれた。黒いセーターに光太郎のおさがりの、黒いズボンをはき、ぞうきんがけをしていた智恵子は、アトリエから仕事中の光太郎を呼びよせ、二人で私の話をきいた。そのとき、即答をしぶる光太郎に引きかえ、智恵子は大賛成、自分もその新聞社で働いたことがあり、不思議な縁だ、視野をひろげるためにもぜひ承諾するようにといい、自分も思いきつて働きたいなどともいうのだつた。
 
智恵子が新聞社で働いていたという事実はありません。うそいつわりを言うシチュエーションではないので、妄想でしょう。こうなると、明らかに統合失調症の症状だと思われます。時期がはっきりしないのですが、早ければ昭和5年(1930)にはこういう出来事があったのです。
 
だからどうというわけではないのですが、時折、智恵子が突然変調をきたした、的な記述などを見かけることがありますので、そうではなさそうだ、ということを記しておく、というわけです。
 
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画像は大正14年(1925)、千駄木林町のアトリエでの光太郎智恵子。昭和31年(1956)筑摩書房発行の草野心平編『日本文学アルバム 高村光太郎』に掲載されていますが、それ以外にはこの写真はほとんど掲載されていないようです。参考までに。