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読書会「少女は本を読んで大人になる」 第6回 高村光太郎『智恵子抄』 

主 催  クラブヒルサイド
日 時  2013年12月6日(金) 19:00~21:00
会 場  クラブヒルサイドサロン 
       東京都渋谷区猿楽町30-2 ヒルサイドテラス アネックスB棟2F
参加費  一般3,500円 学生2,500円 ミニサンドウィッチ、紅茶付
ゲスト  末盛千枝子
 
同会サイトから
『智恵子抄』は、彫刻家・詩人である高村光太郎が、妻・智恵子との出会いからその死の時まで、30 年にわたって書いた詩や短歌をおさめた一冊です。光太郎にとって最愛かつ創作のミューズであった智恵子は、自身もまた芸術家であり、平塚らいてうらとも親交を深める「新しい女」でした。しかし、創作と家庭生活の間での葛藤、実家の破綻も原因し、やがて精神を病み、52 歳で亡くなります。  今回は、高村光太郎を名付け親にもち、美しい絵本の数々を世に送り出してこられた編集者・末盛千枝子さんをゲストにお迎えします。果たして「夫婦」として生きるとはどのようなことなのか――。光太郎と智恵子の有り様を通して、末盛さんと共に考えてみたいと思います。
取り上げる本:高村光太郎『智恵子抄』(新潮文庫他)

 
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ゲストの末盛千枝子さん。「高村光太郎を名付け親にもち」とありますが、光太郎と交流のあった彫刻家・舟越保武のお嬢さんです。舟越はかつて行われていた彫刻と詩二部門の「高村光太郎賞」に輝いたこともあります。
 
昭和51年(1976)に読売新聞社盛岡支局から刊行された『啄木 賢治 光太郎 ―201人の証言―』には、このように書かれています。
 
 光太郎と舟越の初対面は昭和十六年、舟越の長女が生まれた時だった。舟越は当時、光太郎が訳したロダンの言葉に心酔しており、長女の名付け親になってもらうべく、一面識もなかった光太郎を、駒込のアトリエに訪ねたのだという。舟越は練馬にアトリエを持っていた。
 花巻の光太郎は、ずいぶん多くの人たちから名付け親を依頼された。詩人はそのたび「女の子なら智恵子としかつけませんよ」と笑ったが、舟越に対しても同じ意味のことを言い、漢字だけ変えてチエコと名付けてくれた。
 
また、昭和58年(1983)講談社から出た舟越保武・佐藤忠良の『対談 彫刻家の眼』には以下の部分があります。
 
佐藤 二人共、高村さんとは娘で縁があるんだな。君が高村さんに“千枝子”と名付け親になってもらったり、うちのオリエが智恵子を演ったりして。
 
舟越 ああ、そういえばそうだねえ。
 
佐藤 君の場合は、自分の子供の名前を自分でつけないで、他人に付けて貰おうというんだから、それは高村さんへの最大の尊敬だよね。
 
舟越 確かに尊敬の的だった。これはこの間テレビでしゃべったことだけど、高村さんが盛岡へ講演に来られて、花巻へ帰る時に、うちの娘の千枝子がまだ高村さんに会っていなかったので、その時に何とはなしに、きょう合わせた方がいいな、という予感みたいなものが僕にあった。それで娘を連れて、高村さんを盛岡駅へ見送りに行った。「これが先生に名前をつけていただいた千枝子です」と紹介したら、高村さんの表情がいつもと変わったような気がした。娘のおかっぱ頭を撫でて、「おじさんを、覚えておいて下さいね」と言った。その時の様子をはっきり憶えている。
 それから間もなく高村さんは東京へ出て、そしてあの仕事を終えて死んでいるわけ。盛岡駅で感じたあの予感みたいなものね。この小さい娘は自分が死んだ後にもずっと生きてるだろう。ということで高村さんの訣別の言葉だったのだと思う。
 
佐藤忠良も舟越同様、光太郎を敬愛していた彫刻家で、やはり「高村光太郎賞」受賞者です。そのお嬢さんは女優の佐藤オリエさん。昭和45年(1970)、TBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました。舟越保武が「テレビでしゃべった」というのはNHKの「新日曜美術館」でしょう。
 
「あの仕事」は十和田湖畔の裸婦像ですね。
 
末盛さん、その後、編集者・絵本作家としてご活躍。記録によれば初期の頃の連翹忌にご参加いただいています。
 
当方、早速申し込みをしました。どんなお話が聴けるのか、楽しみです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月9日

明治25年(1892)の今日、光雲が西郷隆盛像木型制作主任に任命されました。
 
今も上野のランドマークとして愛されている上野の「西郷さん」。竣工は同31年(1898)ですから、かなりの期間がかかっています。下は当時の手彩色絵葉書(カラー印刷でなく人の手で彩色されたもの)です。
 
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