昨日は福島・川内村に行って参りました。詩人の草野心平を偲ぶ集い「第3回天山・心平の会かえる忌」に参加のためです。昨年に引き続き二度目の参加でした。
会場は川内村中心部にある小松屋旅館さん。座敷の囲炉裏を囲んでの集いとなりました。
午後3時に開会。川内村遠藤村長やかわうち草野心平記念館長・晒名氏のご挨拶の後、心平も好きだった濁酒で乾杯。さらに心平生前の肉声の録音で、光太郎の「鉄を愛す」「樹下の二人」、心平の「ごびらっふの独白」などを聴きました。
その後、当方の講演。題は「高村光太郎と草野心平の交流」。光太郎は明治16年(1883)、心平は同36年(1903)の生まれで、ちょうど20歳離れていますが、大正の末頃知り合ってすぐに意気投合、お互いを大いに認め合い、お互いのためにいろいろな仕事をしました。光太郎は心平の詩集や編著(『宮沢賢治全集』など)の序文や装幀をし、心平の編集していた『銅鑼』、『歴程』、『東亜解放』などに寄稿、心平は光太郎についての評論や詩、随想を書きました。また、光太郎は心平の経営する居酒屋に足しげく通い、心平は晩年の光太郎の身の回りの世話をしたりと、実生活の部分でもいろいろと助け合っています。
そうした二人の交流を、年譜にまとめて発表させていただきました。
特筆すべきは光太郎歿後。心平は昭和32年(1957)の第一回連翹忌で発起人を務めました。そういう意味では当方の大先輩です。
その他にも自身の晩年(昭和63年=1988没)まで、ことあるごとに光太郎についての仕事をしています。
自身で光太郎の詩集や光太郎に関する書籍を編んで刊行したのをはじめ、いろろな雑誌で光太郎特集を組めば寄稿し、光太郎の石碑ができれば碑文や碑陰記を書き、講演やテレビ番組で光太郎を語り続けました。
また、同じ福島県人という事で、心平は智恵子に関する顕彰活動も行いました。
「去る者は日々に疎し」と申します。しかし、心平の中では、その歿後も光太郎・智恵子が生き続けていたのでしょう。といっても、なかなかできる事ではありません。
今日、まがりなりにも光太郎・智恵子の名がメジャーなものとして伝えられ続けている陰には、心平のこのような努力があったわけで、光太郎顕彰の大先輩として尊敬します。
心平は昭和43年の「大いなる手」という文章で次のように書いています。
光太郎は巨人という言葉が実にピッタリの人であった。(略)
巨人と言われるのにふさわしい人物は世の中に相当いるにはちがいないが、私がじかに接し得た巨人は高村光太郎ひとりだった。
巨人と言われるのにふさわしい人物は世の中に相当いるにはちがいないが、私がじかに接し得た巨人は高村光太郎ひとりだった。
対する光太郎も、心平という稀代の詩人の本質を鋭く見抜き、心平の詩集『第百階級』の序(昭和3年=1928)で、次のように評しています。
詩人とは特権ではない。不可避である。
詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。云々ならざるところに、既に、気笛は鳴つてゐるのである。(略)
詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。
詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。云々ならざるところに、既に、気笛は鳴つてゐるのである。(略)
詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。
今回、心平と光太郎の交流について調べてみて、人と人とのつながり―言い換えれば「絆」―の美しさ、強さ、重要性を改めて感じました。
さて、右上の画像は当方講演のレジュメです。光太郎・心平それぞれの、それぞれに対して行ったりしたことについてまとめた年譜が中心です。残部が少しあります。ご希望の方には送料のみでお分けします。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。ただし、モノクロ印刷です。
ところで川内村。
昨日はカーナビが常磐自動車道の常磐富岡ICで下りろ、と指示してきました。広野IC~常磐富岡ICは震災から2年半経った今も通行止めが続いています。しかたなく広野で下りて、一般道に入りました。福島第二原発のある富岡町を通り、本当にもう少し行けば立ち入り禁止区域、というところまで行って、川内村に入りました。
通行可能区間でも、除染のための重機や除染によって出た落ち葉などの廃棄物を詰めてあると思われる巨大なビニール袋などが目につきました。シャッターを下ろした店舗も多数。また、山間部の道路では、未だに崩落し、片側対面通行になっている箇所も複数ありました。かえる忌会場でも地元の方々から、帰還の状況などまだまだであることを伺いました。
そんな中、懇親会の席上では、逆に東京から川内村に移り住んだ若者が紹介されたりという明るい話題もありました。しかし、もちろん喜ばしいことですが、一人の若者が移り住んだというだけで大喜びという状況、おかしいとは思いませんか? 美しい紅葉を目にし、新そばや巨大なイワナの塩焼きに舌鼓を打ち「こんなにいい所なのに……」と、思いは複雑でした。
当方、来年は川内村で行われる市民講座的なもので、複数回講師を依頼されました。微力ながら少しでも復興支援となればと、お引き受けしました。
まだまだ復興途上です。最近は一頃はやった「絆」という合い言葉もあまり聞かれなくなってきました。しかし、「絆」の一語、風化させるにはまだ早いと思います。皆さんもできる範囲での支援をよろしくお願いいたします。
【今日は何の日・光太郎】 10月27日
昭和27年(1952)の今日、紀尾井町福田屋で、詩人の竹内てるよ、栄養学者の川島四郎との座談「高村光太郎先生に簡素生活と栄養の体験を聞く」を行いました。