日本経済新聞社さんの関連会社・日経BPさん刊行の月刊誌『日経おとなのOFF』。今月発売の11月号に、光太郎智恵子関連の記事がありますのでご紹介します。
 
まず書家・木下真理子さんによる連載「木下真理子の大人の書道塾」。
 
光太郎が戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋に暮らしていた頃の書「吾山のうた」を紹介して下さっています。
 
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書かれている文言は短歌です。
 
吾山になかれ無題1
てやまぬ山ミ
つのやミかた
くして道は
ゆくなり
 
わかりやすく表記すると、
 
吾山に 流れてやまぬ 山水の
やみがたくして 道はゆくなり
 
となります。
 
中国の古碑の拓本を愛した光太郎の書は、木下さん曰く「単に文人の書といって片づけられるものではありません。」「彫るような感覚で書作していた」「光と影によって浮き彫りになった「文字という彫刻」を見ていたはずです。」。
 
いちいちごもっともです。
 
戦後の光太郎は十和田湖畔の裸婦像を手がける昭和27年(1952)まで彫刻を封印、その代わり、というわけではありませんが、多くの書作品を残しました。
 
それら戦後の書作品、今回紹介された短歌の揮毫もそうですが、今年5月にリニューアルされた花巻の高村光太郎記念館にたくさん収められています。昨年いただいたリストに依れば毛筆の書作品が40点ほど、ペン書きの草稿等も同じくらい、その他書簡類もあります。一部は記念館で展示されていますが、数が多いため、全ては並んでいません。
 
美術館・文学館等での企画展、今回のようなメディアでの利用など、出来る限り協力して下さるとのこと。「死蔵」にしないためにも、皆さんにどんどん活用していただきたいものです。
 
さて、『日経おとなのOFF』。明日開幕する福島二本松の大山忠作美術館での「五星山展」の紹介記事も載っていました。
 
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ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月11日

明治23年(1890)の今日、光雲が帝室技芸員に任命されました。
 
元々町の仏師だった光雲は、明治維新からしばらくの間は、廃仏毀釈のあおりで注文が激減、その日暮らしを続けていました。光太郎が生まれた明治16年(1883)ころは、最も苦しい時期。それが明治20年(1887)の皇居造営で装飾彫刻を担当した頃から境遇が激変、同22年(1889)には東京美術学校に奉職、そして123年前の今日、帝室技芸員に任ぜられ、「巨匠」への道を歩んでいくこととなります。