もう1日、レモン忌関連のネタで行かせていただきます。
 
10/6の第19回レモン忌、来賓として智恵子の母校である二本松市立油井小学校の伊藤校長先生がご参会、同校での智恵子顕彰に関する取り組みをご紹介なさいました。
 
以下、レモン忌にていただいた学校便り「油井っ子」から。
 
まず、9/13に行われたモンデンモモさんを招いての活動
 
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9/15には「第5回智恵子純愛通り記念碑建立祭」への参加。

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9/24には油井小学校さんの主催で「第7回智恵子記念マーチングパレード」が行われたそうです。

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光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんでは、光太郎顕彰活動に取り組まれているそうです。また、5月15日の花巻光太郎祭では、山荘近くにあった山口小学校の後身・太田小学校さんや、同じく太田中学校の後身・西南中学校さんの児童生徒の皆さんが、詩の朗読や合唱、合奏で花を添えてくれています。
 
このように、小さな頃から自然と顕彰活動に取り組むことで、子供たちに自然と光太郎智恵子への敬愛の念が育ってゆくのではないでしょうか。
 
今後も継続的に取り組んでいっていただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月9日

大正6年(1917)の今日、森鷗外に自宅に呼びつけられ、鷗外について陰口を叩いていることについて釈明させられました。
 
鷗外曰く、
 高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。
(「観潮楼閑話」 大正6年10月)
 
 閑話は今一つ奇なる事件を生じた。それは高村光太郎さんが閑話中に引かれたことを人に聞いてわたくしに書をよせた事である。閑話に引いた高村光太郎氏の語は自ら記したものではなく、多分新聞記者の聞書などであつただらうと云ふことである。
(略)
 わたくしは高村氏に答へて、何時にても面会して、こちらの思ふところを告げようと云つた。とうとうわたくしは一夜高村氏を引見して語つた。
(略)
 高村氏はかう云ふ。自分は君を先輩として尊敬してゐる。唯君と自分とは芸術上行道を異にしてゐるだけだと云ふ。わたくしは答へた。果して芸術上行道を異にしてゐるなら、よしや先輩と云ふとも、それがよそよそしい関係になるであらう。わたくしの思ふには、君とわたくしとは行道を異にしてはをらぬやうである。
(略)
 高村氏は私の言を聞いてこれに反対すべきものをも見出さなかつた。
(同 大正7年1月)
 
光太郎曰く(川路柳虹との対談)、
川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)
(「鷗外先生の思出」昭和13年=1938)
 
何だか現代の若者がネットに悪口を書き込んだとか書き込まないとかのトラブルの話のようです。さすがに暴力行為には発展しませんでしたが。
 
ところで、この鷗外と光太郎が見たという「「新潮」か何かのゴシツプ欄」というのが確認できていません。当時の「新潮」はすべてあたったのですが発見できず、他の雑誌等だったと思われます。情報をお持ちの方、出典を教えていただければ幸いです。