昨日に続き、福島レポートの2回目です。
午前中、智恵子の母校・油井小学校での音楽集会を見せていただいた後、安達太良山の麓を通り、岳温泉郷を越え、土湯温泉方面に向かいました。先月29日に全焼した不動湯温泉をの様子をこの目で見るためです。
昭和8年、統合失調症の進んだ智恵子の療養のため、光太郎と智恵子は福島・栃木の温泉巡りをし、その際に不動湯にも滞在しました。「二人が宿泊した旅館」というだけなら他にもたくさんあるのですが、不動湯の場合、二人が泊まった部屋が特定でき、さらにそのまま残っていたこと、それからおそらく確認できているものとしては唯一、光太郎が書いた宿帳が残っていたという点で貴重でした。それらが灰燼に帰してしまったわけです。
さて、土湯の温泉街からさらに数キロ入った山の中に不動湯温泉がありました。当方、約10年ぶりに現地に立ちました。10年前は自分の運転ではなかったのですが、今回、自分で運転して行ってみて、あらためてとんでもない山の中だというのを再確認しました(そのため消火作業がはかどらなかったそうです)。
現地に着き、まず目に飛び込んできたのは、道沿いにあった母屋から離れた車庫でした。
そこから山の斜面を下りていくと、かつて母屋のあった場所につきました。火災から2週間経っていましたが、まだ焦げ臭いにおいが立ちこめていたのには驚きました。
建物は跡形もなく焼け落ち、周りの森の立木まで真っ黒に焼けています。さらに下を見ると、渓流沿いの露天風呂に通じる階段の跡。この階段も不動湯名物の一つでした。
かつて玄関だった辺りだと思いますが、花が供えられていました。従業員の方が一人、亡くなっていますので、そのためでしょう。当方も手を合わせ、ご冥福をお祈りして参りました。
おそらく帳場があった辺りには、燃え残った書籍類や食器などが見て取れました。
例の光太郎が書いた宿帳は燃え残っていないかと探してみました。それより新しいと思われる宿帳―それもほとんど黒焦げの状態でした―は見つかりましたが、光太郎が書いたものは見つかりませんでした。
迷ったのですが、このままここで土に帰るよりはと思い、見つけた宿帳の切れ端を持って帰ることにしました。「土湯村」の文字が見えるので、これも相当古いものでしょう。保管して不動湯を偲ぶよすがとしたいと思います。
迷ったのですが、このままここで土に帰るよりはと思い、見つけた宿帳の切れ端を持って帰ることにしました。「土湯村」の文字が見えるので、これも相当古いものでしょう。保管して不動湯を偲ぶよすがとしたいと思います。
以下、火災から2日後の『福島民報』さんの記事です。
秘湯、消火作業阻む 温泉街から4キロ、険しい道、水利悪く鎮火に7時間
福島市土湯温泉町の「不動湯温泉 白雲荘」で29日夜に起きた火災は、焼け跡から一人が遺体で見つかる惨事となった。旅館は大正6年創業の老舗で、詩人高村光太郎・智恵子夫妻が宿泊したことで知られる秘湯。険しい山道と水利の悪さが消火作業を阻んだ。「浴衣のまま、はだしで逃げた」。30日に無事が確認された男性宿泊客は福島民報社の取材に対し、出火当時の緊迫した様子を語った。
土湯温泉街から山道を約4キロ上った先にあった秘湯。一軒宿で周辺は水利が悪い上、狭い道がつづら折れになっていた。大型水槽を備えたタンク車が火災現場まで入れず、消火作業は難航を極めた。
消防署12隊、消防団12隊の合わせて約120人が駆け付けた。地元消防団員の先導で小さな沢などを探し、土湯温泉街近くまで小型動力ポンプを運び、ホースを何本もつないで中継放水した。
鎮火したのは、日付が変わった30日午前4時40分。火災発生から約7時間がたっていた。
県消防保安課によると、昨年6月に福島市消防本部が同旅館に立ち入り検査した際、自動火災報知器や誘導灯、消火器などの安全を確認していた。旅館の延べ床面積は666平方メートルで、消防法で定めるスプリンクラーの設置義務はなかったという。
■無事確認の男性宿泊客 迫る炎、はだしで避難
30日に無事が確認された神奈川県鎌倉市の男性客(46)は、旅館から着の身着のまま逃げた状況を生々しく振り返った。
「もう駄目だ、逃げろ」。消火活動をしていた男性従業員の叫び声が響き渡った。出張で福島市を訪れていた男性は29日夕、宿泊の手続きを済ませ、名湯に漬かり、晩酌を楽しんでいた。午後9時半ごろ、「赤い明かりが見える」と切迫した大おかみの声が聞こえた。男性が廊下につながるふすまを開けると、白い煙と真っ赤な炎が辺りを包んでいた。惨事を予感し、浴衣姿のまま、はだしで車に駆け込んだ。
秘湯を後にし、市内の飲食店駐車場で一夜を明かした。「二度とこんな経験はしたくない」。男性の表情に疲れの色が見えた。
大おかみの阿部美千子さん(77)は、客の誘導中に旅館内が瞬く間に炎に包まれていくのを目撃した。「どうにもできなかった」と、力なく振り返った。
■老舗旅館惜しむ声 原発事故後も人気「貴重な存在」
土湯温泉では、東日本大震災で被災し、廃業に追い込まれる旅館もあったが、大正時代に建築された白雲荘の本体は震災に耐えた。
破損した約80段の外階段を4月から6月にかけて県の補助金で補修したばかり。9月から11月にかけて秘湯と歴史を満喫してもらうモニターツアーを企画し、参加者を募集中だった。おかみが大正時代から続く同旅館の歴史を「語り部」として説明する時間も設けていた。
土湯温泉観光協会事務局長の池田和也さん(55)は「秘湯と歴史で、全国の温泉通の間で人気が高く、原発事故後も県外からお客を呼べる貴重な存在だった」と惜しんだ。
■智恵子の宿帳、焼失か
白雲荘には高村光太郎、智恵子夫妻が昭和8年9月に宿泊し、その筆跡が残る宿泊者名簿も焼失したとみられる。
智恵子の研究を続ける二本松市文化財保護審議会委員の根本豊徳さん(62)は「光太郎と智恵子の最後の旅行の行程を裏付ける貴重な証拠だっただけに、大きな損失だ」と嘆いた。
土湯温泉街から山道を約4キロ上った先にあった秘湯。一軒宿で周辺は水利が悪い上、狭い道がつづら折れになっていた。大型水槽を備えたタンク車が火災現場まで入れず、消火作業は難航を極めた。
消防署12隊、消防団12隊の合わせて約120人が駆け付けた。地元消防団員の先導で小さな沢などを探し、土湯温泉街近くまで小型動力ポンプを運び、ホースを何本もつないで中継放水した。
鎮火したのは、日付が変わった30日午前4時40分。火災発生から約7時間がたっていた。
県消防保安課によると、昨年6月に福島市消防本部が同旅館に立ち入り検査した際、自動火災報知器や誘導灯、消火器などの安全を確認していた。旅館の延べ床面積は666平方メートルで、消防法で定めるスプリンクラーの設置義務はなかったという。
■無事確認の男性宿泊客 迫る炎、はだしで避難
30日に無事が確認された神奈川県鎌倉市の男性客(46)は、旅館から着の身着のまま逃げた状況を生々しく振り返った。
「もう駄目だ、逃げろ」。消火活動をしていた男性従業員の叫び声が響き渡った。出張で福島市を訪れていた男性は29日夕、宿泊の手続きを済ませ、名湯に漬かり、晩酌を楽しんでいた。午後9時半ごろ、「赤い明かりが見える」と切迫した大おかみの声が聞こえた。男性が廊下につながるふすまを開けると、白い煙と真っ赤な炎が辺りを包んでいた。惨事を予感し、浴衣姿のまま、はだしで車に駆け込んだ。
秘湯を後にし、市内の飲食店駐車場で一夜を明かした。「二度とこんな経験はしたくない」。男性の表情に疲れの色が見えた。
大おかみの阿部美千子さん(77)は、客の誘導中に旅館内が瞬く間に炎に包まれていくのを目撃した。「どうにもできなかった」と、力なく振り返った。
■老舗旅館惜しむ声 原発事故後も人気「貴重な存在」
土湯温泉では、東日本大震災で被災し、廃業に追い込まれる旅館もあったが、大正時代に建築された白雲荘の本体は震災に耐えた。
破損した約80段の外階段を4月から6月にかけて県の補助金で補修したばかり。9月から11月にかけて秘湯と歴史を満喫してもらうモニターツアーを企画し、参加者を募集中だった。おかみが大正時代から続く同旅館の歴史を「語り部」として説明する時間も設けていた。
土湯温泉観光協会事務局長の池田和也さん(55)は「秘湯と歴史で、全国の温泉通の間で人気が高く、原発事故後も県外からお客を呼べる貴重な存在だった」と惜しんだ。
■智恵子の宿帳、焼失か
白雲荘には高村光太郎、智恵子夫妻が昭和8年9月に宿泊し、その筆跡が残る宿泊者名簿も焼失したとみられる。
智恵子の研究を続ける二本松市文化財保護審議会委員の根本豊徳さん(62)は「光太郎と智恵子の最後の旅行の行程を裏付ける貴重な証拠だっただけに、大きな損失だ」と嘆いた。
色即是空、諸行無常と申しますが、それにしても……です。
【今日は何の日・光太郎】 9月15日
昭和26年(1951)の今日、「創元選書」の一冊として、『高村光太郎詩集』が刊行されました。編集に当たったのは草野心平でした。