宮城・女川から2件ニュースが入っています。
 
まず『日本経済新聞』さんから。 

津波の記憶を石碑に 宮城・女川町の中学生、福岡で募金

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の中学生たちが「1000年後の命を守ろう」と、町内の津波到達点21カ所に津波の恐ろしさを伝える石碑を建てる計画を進めている。必要な資金約1000万円は、一口100円の募金で広く集める。地元だけでなく、作文コンクールへの応募が縁でつながりができた福岡市など各地を訪れ、協力を呼びかけている。
 
 「女川町では津波でたくさんの命が失われました」。7月下旬の日曜日。買い物客が行き交う福岡市天神で、女川町立女川中学3年の阿部由季さんがマイクを握った。「1人でも多くの命を守るため、石碑を建てようと考えています」。同級生の神田七海さんも「ご協力をお願いします」と声を張り上げた。
 
 女川町はリアス式海岸の入り江に面し、津波が陸地を駆け上がった高さ(遡上高)は最高43メートルに達したとされる。家屋の約8割が流失し、人口約1万人のうち約8%が死亡・行方不明になった。
 
 震災の翌月に再開した女川第1中学校(現在は女川中学校に統合)に入学した阿部さんらは、社会科の授業で防災について話し合った。自分たちで考えた対策の1つが「いのちの石碑」で震災の記録を残し、次の世代に伝えることだった。
 
 計画では、町内に21カ所ある浜の津波到達地点に、高さ2メートル、横幅1.3メートルの石碑を1基ずつ建てる。碑には生徒の「夢だけは 壊せなかった 大震災」との句を刻む。高台への避難路も整備。水や食料も備蓄して避難訓練を毎年行うという。
 
 賛同した県内の業者が石材を寄贈したが、加工・設置には1基当たり約45万円、計約1000万円が必要。そこで、かつて女川町の住民が100円ずつ集めて海岸に高村光太郎の歌碑を建てたことに倣い、「100円募金」の開始を決めた。
 
 福岡での募金活動の契機になったのが、阪神大震災を機に設立された「夢みるこども基金」(福岡市中央区)の作文コンクール。「私のかなえたい夢」をテーマに「保育士になって震災をこどもたちに伝えたい。震災に遭って夢が増えました」とつづった阿部さんが最優秀賞に輝いた。神田さんも優秀賞だった。
 
 これが縁で同基金が今夏、2人を福岡市に招き、入賞した他の小中学生と一緒に募金活動をした。基金の古市悟事務局長は「子供たちが復興の中心になることに共感した。支援の輪が広がってほしい」とエールを送る。
 
 石碑は成人式を迎えるまでに完成させる計画。神田さんは「福岡でもみんなが協力してくれた。この気持ちを大切に活動を続けたい」と話す。すでに地元や、修学旅行先の東京でも街頭に立った。募金は銀行振り込みでも受け付ける。詳細は「いのちの石碑プロジェクト」のホームページ。
 
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平成3年(1991)に女川に立てられた光太郎文学碑が「100円募金」によって作られたことにつながっています。故・貝(佐々木)廣さんの魂が根づいていることを感じました。
 
もう一件、8月9日に行われた「女川光太郎祭」の報道です。『石巻かほく』さんから。 

仮設商店街で「光太郎祭」 詩を朗読 作品に、古里思う 女川

 女川町を訪れた詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第22回光太郎祭(女川・光太郎の会主催)が9日、女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」であり、約70人の住民らが参加した。

 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表(千葉県香取市)が「高村光太郎、その生の軌跡」と題して講演。「どんなに偉大な人でも伝えなければ、忘れ去られてしまう。光太郎の思いを女川の地で後々まで語り継ぐ活動をしてほしい」と呼び掛けた。

 献花した後、小学生ら7人が光太郎の詩を朗読した。文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長が「観自在こそ-光太郎の底を貫く東方の信仰」をテーマに講話した。

 東日本大震災で女川町は壊滅的な被害を受けた。参加者は光太郎の作品に震災前の豊かな自然と風景を思い浮かべながら復興に向けて進むことを誓った。

 女川のことを記した紀行文や詩を題材にした光太郎の文学碑は1991年、女川港に建てられた。光太郎祭はその翌年から、三陸の旅に出発した8月9日に合わせて開催している。震災で三つあった文学碑のうち二つは倒壊し、一つは行方不明になっている。

 
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地方紙ですと、緊急性のないイベント報告等はかなりあとになって報道されるケースがあり、この記事も最近出ました。
 
当方についても記述がありますが、一番言いたかったことをズバリ書いて下さっており、感謝いたします。
 
とにかく女川をはじめ、被災地の元気を1日も早く取り戻してほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月22日

昭和21年(1946)の今日、総合花巻病院長・佐藤隆房の夫人・雪江にあてた書簡に俳句「秋晴れて林檎一萬枝にあり」をしたためました。
 
気がつけば8月も下旬、東北ではそろそろ林檎も色づいていることでしょう。