8月10日、女川光太郎祭の翌日。北川太一先生の教え子の皆さんである北斗会の方々がチャーターされたマイクロバスに便乗して帰って参りました。
北斗会の方々は、北川先生のご講演があるということもありますし、多くの方が女川光太郎の会の中心だった故・貝(佐々木)廣さんと面識がおありで、そのため昨年・今年と多数女川光太郎祭にいらしていただいています。
バスに乗せていただく代わりに、帰りに二本松に寄り、いろいろとご案内しました。智恵子の生家、智恵子記念館、「樹下の二人」詩碑、大山忠作美術館など。
智恵子生家・記念館に着いて、地元で智恵子顕彰活動をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一さんの携帯に電話、すると熊谷さん、お仕事の合間に来て下さり、展示の詳しいご説明等なさってくださいました。
その中で、当方も初めて知ったのですが、智恵子の肖像写真として最も有名な右のショットについて、興味深いお話を伺いました。
ちなみにこの写真の初出は明治45年(1912)6月5日の『読売新聞』。「新しい女(一七)長沼智恵子」という記事に使われました。その後、同じ年10月の雑誌『新婦人』に口絵として大きく載りました(当方、こちらは持っています)。この時智恵子、数え27歳、前年暮れに光太郎と出会っています。
今まで、この写真がどこで撮影されたかなど、まったく考えたこともありませんでしたが、熊谷氏曰く、バックの障子や柱、壁の感じから、どうやら生家の縁側で撮られたものと考えられる、とのこと。実際にその場所でこのアングルから見ると、たしかにそのように見えました。
となると、他にも長沼一家が写った写真は複数あり、それらを含めて、地元の写真技師が撮影したということなので、原板的なものがどこかに残っていないかなどと思いました。情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご一報いただけると幸いです。
さて、智恵子生家のすぐ近くに戸田屋さんという商店があります。食料品から日用雑貨、土産物まで売っているお店です。今回同行された文治堂書店の勝畑耕一氏が気づいたのですが、その店内に、女川光太郎の会の故・貝(佐々木)廣氏の筆跡が残っていました。
智恵子を顕彰する集いとして毎年10月に行われている「レモン忌」の第一回が平成6年に行われた(この年は10月ではなく9月)際の寄せ書きで、戸田屋さん店内の壁、高いところに貼ってありました。
当方、戸田屋さんは何度も訪れていますが、全く気づいていませんでした。
その上、戸田屋さんのおかみさんが貝さんのことをよく覚えていらっしゃり、我々一行が女川からの帰りであると知って、驚いていました。
人と人とのつながり、というのは本当に不思議なものです。
【今日は何の日・光太郎】 8月14日
明治42年(1909)の今日、徴兵検査を受けました。結果は「咀嚼に耐えず」との理由で不合格でした。
軍医総監だった森鷗外が裏で手を回してくれたらしい、とのことです。