光太郎顕彰活動に取り組んでいることで、各地の美術館や文学館の学芸員さんと知遇を得ました。4/2の連翹忌にも、毎年多数ご参加いただいています。
 
現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」など、光太郎が関係する企画展を開催して下さった館の学芸員さん、光太郎と関連の深い作家の個人美術館等の学芸員さんなどなど。
 
昨日、このブログでご紹介した吉川弘文館さん刊行の『彫刻と戦争の近代』をお書きになった平瀬礼太氏も姫路市立美術館の学芸員さんです。
 
平成22年(2010)、同館で「特別企画展 没後50年 白瀧幾之助展」という企画展がありました。白滝は光太郎より10歳年上の画家で、東京美術学校西洋画科に学んだ光太郎の先輩です。光太郎と同時期にイギリス、フランスに留学、彼の地で一時期共同生活をするなど、いろいろと光太郎の世話を焼いてくれました。
 
その白瀧と、さらに白瀧と同居していたやはり画家の南薫造両名に連名で宛てた光太郎の絵葉書2通が、「特別企画展 没後50年 白瀧幾之助展」に展示されました。どちらも明治41年(1908)、パリからロンドンの白瀧・南に送られたもので、『高村光太郎全集』等に未収録でした。
 
禿頭で体格の良かった白瀧を「入道殿」、小柄だった南を「アンフアン兄」(enfant=仏語で「小僧」)とあだ名で呼び、伝法なべらんめえ口調で書いた珍しい葉書です。また、パリでアフタ性口内炎を患い抜歯したことや、それまでの光太郎資料に名が見えなかった建築家の日高胖(ゆたか)の名も記されるなど、興味深い内容です。
 
後に図録でその存在を知り、同館にその内容を問い合わせたところ、対応して下さったのが平瀬氏。こころよく協力して下さり、大きく拡大したカラーコピーを送って下さいました。おかげで本年4月刊行の『高村光太郎研究34』所収の拙稿「光太郎遺珠⑧」で全貌を明らかにできました。
 
さて、『彫刻と戦争の近代』。たまたま『日本経済新聞』さんの書評欄に載っているのを目にし、まず平瀬氏のお名前に気づいて驚き、ついで評を読んで「これは買わなければ」と思い、取り寄せた次第です。
 
ちなみに書評は以下です。書評だけでなく、著者紹介も兼ねた記事ですね。
 
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最後に地方美術館の学芸員としてのご労苦も語られています。
 
当方の存じ上げている地方美術館・文学館の学芸員さんは皆、日々いろいろなご労苦との闘いのようです。予算の獲得、行政との折衝、施設設備の問題などなど……。
 
そうした中で頑張ってらっしゃる皆様には本当に頭の下がる思いです。あらためてそんな皆さんにエールを送りたい気持ちです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月7日

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外大沢温泉の山水閣さんに宿泊しました。
 
大沢温泉さんは花巻での当方の定宿で、たびたびこのブログでも取り上げていますが、光太郎お気に入りの温泉一つでした。