今日は68回めの広島原爆の日です。この後、長崎原爆の日、そして終戦記念日と続き、この時期はあの戦争を振り返るイベントが続きます。
先頃、当時の世の中が彫刻家に何を求め、彫刻家たちがどのように戦争と向き合っていたのか、そういった点に関する考察が書かれた書籍が刊行されました。
平瀬礼太著 平成25年7月1日 吉川弘文館刊 定価1,700円+税
戦争イメージから、平和のシンボルへ…。戦時体制下、戦争関連作品を創り続けた彫刻家の苦難の歴史から、近代日本彫刻の変容を描く。
戦争イメージから、平和のシンボルへ…。戦時体制下、戦争関連作品を創り続けた彫刻家の苦難の歴史から、近代日本彫刻の変容を描く。
戦時体制下、彫刻界ではどのような活動がなされていたのか。材料不足や表現活動の制限に不自由さを感じながらも、戦勝記念碑やモニュメントなど、戦争に関連した作品の創作を続けていた彫刻家たちの苦難の歴史を辿る。戦後、戦争イメージが、平和のシンボルに姿を変えながら現代まで残存している動向などにも言及し、近代日本彫刻の変容を描く。
目次(詳細項目略)
近代彫刻の変容―プロローグ
戦争と彫刻
近代日本の彫刻と戦争
芸術と社会
戦争の時代
戦争の時代への突入と彫刻
彫刻制作への圧力
傷痍軍人と彫刻
日米開戦の衝撃
変転相次ぐ彫刻活動
盛り上がる彫刻界
銅像の行方
突き進む彫刻
戦後へ
敗戦とともに
混乱の中で
まだ終わらない戦争―エピローグ
光太郎についても随所に記述があります。
戦時中、光太郎は詩の方面では大政翼賛会文化部、中央協力会議などに関わった他、日本文学報国会の詩部会長の任に就いていました。そして実際に戦意高揚の詩を多数発表しています。
彫刻の方面では、実作としては他の彫刻家のように兵士の像などを造ったわけではありませんが、昭和17年(1942)には造営彫塑人会顧問に推され、就任しています。この会はその綱領によれば、「大東亜建設の国家的要請に即応して国威宣揚、日本的モニュマンタル彫塑を完成して、指導的世界文化の確立を期すこと、国民的造営事業に対し挺身隊たらんとすること」が謳われたそうです。
その発会式での光太郎の演説が残っています。一部、抜粋します。
今、大東亜戦争の勃発によつて、日本国民は忽ち我が国体本然の姿に立ちかへり、御稜威の下、一切が国民の総力によつて成るべきことを確認するに至りました。この時記念碑的製作に従ふ吾等彫刻家は再び祖先の芸術精神を精神として、おのづから昨日の狭小な風習をあらたむべきは当然のことであります。此の造営彫塑人会の志すところは即ち、聖代に生をうけた彫刻家の総力をかかる時代に値する記念碑的彫刻の本然の姿が如何やうのものである可きかを究めようとするものでありませう。
著者の平瀬氏、この辺りに関して「ここには「緑色の太陽」があってもいいと個性尊重を謳いあげた往年の高村はいない。」と評します。ある意味、その通りです。
こうした戦時の彫刻界の流れについての考察が本書の中心です。一読の価値大いにあり、です。
ところで、著者の平瀬礼太氏、姫路市立美術館の学芸員さんで、当方、以前の調査で大いにお世話になった方です。明日はその辺りを。
【今日は何の日・光太郎】 8月6日
昭和23年(1948)の今日、この月初めにできた面疔(めんちょう)がますます腫れたことを日記に記しました。
「面疔」は「とびひ」などと同じく黄色ブドウ球菌による感染症です。戦後の不自由な山小屋住まいの中では、このような苦労もあったのですね。
目次(詳細項目略)
近代彫刻の変容―プロローグ
戦争と彫刻
近代日本の彫刻と戦争
芸術と社会
戦争の時代
戦争の時代への突入と彫刻
彫刻制作への圧力
傷痍軍人と彫刻
日米開戦の衝撃
変転相次ぐ彫刻活動
盛り上がる彫刻界
銅像の行方
突き進む彫刻
戦後へ
敗戦とともに
混乱の中で
まだ終わらない戦争―エピローグ
光太郎についても随所に記述があります。
戦時中、光太郎は詩の方面では大政翼賛会文化部、中央協力会議などに関わった他、日本文学報国会の詩部会長の任に就いていました。そして実際に戦意高揚の詩を多数発表しています。
彫刻の方面では、実作としては他の彫刻家のように兵士の像などを造ったわけではありませんが、昭和17年(1942)には造営彫塑人会顧問に推され、就任しています。この会はその綱領によれば、「大東亜建設の国家的要請に即応して国威宣揚、日本的モニュマンタル彫塑を完成して、指導的世界文化の確立を期すこと、国民的造営事業に対し挺身隊たらんとすること」が謳われたそうです。
その発会式での光太郎の演説が残っています。一部、抜粋します。
今、大東亜戦争の勃発によつて、日本国民は忽ち我が国体本然の姿に立ちかへり、御稜威の下、一切が国民の総力によつて成るべきことを確認するに至りました。この時記念碑的製作に従ふ吾等彫刻家は再び祖先の芸術精神を精神として、おのづから昨日の狭小な風習をあらたむべきは当然のことであります。此の造営彫塑人会の志すところは即ち、聖代に生をうけた彫刻家の総力をかかる時代に値する記念碑的彫刻の本然の姿が如何やうのものである可きかを究めようとするものでありませう。
著者の平瀬氏、この辺りに関して「ここには「緑色の太陽」があってもいいと個性尊重を謳いあげた往年の高村はいない。」と評します。ある意味、その通りです。
こうした戦時の彫刻界の流れについての考察が本書の中心です。一読の価値大いにあり、です。
ところで、著者の平瀬礼太氏、姫路市立美術館の学芸員さんで、当方、以前の調査で大いにお世話になった方です。明日はその辺りを。
【今日は何の日・光太郎】 8月6日
昭和23年(1948)の今日、この月初めにできた面疔(めんちょう)がますます腫れたことを日記に記しました。
「面疔」は「とびひ」などと同じく黄色ブドウ球菌による感染症です。戦後の不自由な山小屋住まいの中では、このような苦労もあったのですね。