今朝になって気づきましたが、本日、13時27分からNHK総合テレビで放映の「スタジオパークからこんにちは」が、「アンコール特集 渡辺えり」です。少し前に放送されたものの再放送で、当方、本放送は見逃したのですが、えりさんのお父さんと光太郎の交流に関する話も含まれていたとのこと。ご覧下さい。
 
さて、話は変わって、檜書店さんという出版社が刊行している月刊誌で『観世』というものがあります。その名の通り、能楽観世流の機関誌のようなものではないかと推察します。
 
その『観世』の今月号に、「観世寿夫と『智恵子抄』」という記事が載っています。
 
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千葉市美術館の学芸員さんから情報を得、早速取り寄せました。
 
著者は宗教学者の山折哲雄氏で、同誌の連載「能を考える」の第十七回。6ページにわたって掲載されています。
 
題名にある「観世寿夫」は観世流のシテ方でしたが、昭和32年(1957)に新作能「智恵子抄」を作り、上演しています。構成・演出は映画監督の武智鐵二。観世寿夫自身も光太郎役で出演しています。
 
初演は昭和32年ですから光太郎没後ですが、生前からこの話が進んでおり、光太郎の日記に武智の名と能楽「智恵子抄」に関する記述があります。また、それなら、と、能面のデザインも光太郎が手がけようとし、そのためのスケッチも残っています。ちなみにこの能面のスケッチ、現在開催中の千葉市美術館の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」で展示中です。ただ、光太郎デザインの能面は結局実現しませんでした。
 
さて、『観世』の記事。観世寿夫を祖とする「銕仙会」に残る能楽「智恵子抄」の録音を、山折氏が聴いたことが書かれています。
 
曰く、
 
観世寿夫の声をきいているうちに、『智恵子抄』の言葉の一つひとつがまるで能舞台の上に這いのぼってくるような光景がみえはじめ、それがまぼろしのごとく揺らぎはじめていることに気がついた。起伏に富む現代詩の言葉が能の詩章の海にほとんど融けこんでしまっている。その両者のあいだをへだてる障壁が、それと気づかせないうちに取り払われていたのである。光太郎の詩の言葉が謡のリズムのなかに吸いこまれてしまったのか、謡の調べが詩の言葉の流れに融解してしまっているのか、それが判然としない…。
 
要するに何の違和感もなく、光太郎の詩句が謡曲として成立しているということですね。
 
そして山折氏、この新作能の背景には、謡曲「安達原」が色濃く影響していると指摘しています。まぁ、誰しもそう感じるところでしょう。
 
「安達原」は有名な鬼女伝説を元にした能の演目で(観世流以外では「黒塚」)、その舞台となったのがまさに智恵子の故郷、二本松の旧安達地区です。
 
平安時代の『拾遺和歌集』には平兼盛の作として、この安達ヶ原の鬼女伝説をモチーフにした次の歌が載っています。
 
陸奥の安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか
 
そして光太郎はそれを受けて、詩「樹下の二人」の冒頭に、詞書のように次の短歌を添えています。ある意味、本歌取りのようです。
 
みちのくの安達が原の二本松松の根方に人立てる見ゆ
 
「樹下の二人」は、この後、有名なリフレイン「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」と続くのです。
 
この「樹下の二人」、能「智恵子抄」でも使われています。山折氏によれば、観世寿夫は先述の光太郎短歌の背後に、謡曲「黒塚」があることを読み取っていたはず、というのです。それもそのとおりでしょう。
 
話は変わりますが、今月28日(水)に、国立能楽堂で行われる「能楽座自主公演」の演目に、「舞囃子「智恵子抄」」の文字が見えます。
 
こちらもぜひ足をお運びください。
 
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