昨日の続きです。
 
南品川ゼームス坂病院で智恵子が息を引き取ったのは、昭和13年(1938)10月5日。その当日まで、光太郎は5ヶ月間、智恵子を見舞いませんでした。
 
この五ヶ月の空白を巡り、昨日紹介したような手厳しい意見があるのはある意味仕方がないでしょう。
 
しかし、光太郎を擁護するわけではありませんが、光太郎自身は次のように述べていますので、ご紹介します。
 
チヱ子をも両三度訪ねましたが、あまり家人に会うのはいけないとお医者さんがいうので面会はなるたけ遠慮しています。
昭和10年(1935)3月12日 中原綾子宛書簡
 
これを裏付けるように、智恵子の付き添い看護にあたった姪の宮崎春子の回想にも次の一節があります。
 
はじめは、身内の看護はかえつていけないからというわけで、試験的につけるということであつたが、たいへん結果が良かつたので、院長先生はじめ伯父も喜んでくれ、「春子さんについてもらつて安心した」と言つてくれた。
(「紙絵のおもいで」宮崎春子 『高村光太郎と智恵子』草野心平編所収 昭和34年(1959) 筑摩書房)
 
要するに病院の方針、というわけです。
 
しかし、五ヶ月はあまりに長い……。
 
結局、答えは見つかりません。
 
この点について先哲諸氏はどう捉えているのか、いくつかご紹介します。
 
五ヶ月もの長い間、光太郎が智恵子を見舞いに訪れなかったのは、理解に苦しむところです。智恵子を興奮させないようにとの配慮からであったのか、それとも心の交流が不可能なほどに智恵子の人格荒廃が進行していたのか、今となっては確かめるすべもありません。
(『智恵子抄の光と影』 上杉省和 平成11年(1999) 大修館書店)
 
この五ヶ月の空白を、人は光太郎の愛の在り方を含めて、様々に詮索します。病状は刻々春子から報じられたに違いありません。五月の母の訪問が、智恵子にどんな結果をもたらしたか。光太郎が案じていた智恵子の興奮がどんな風に起こり、どんなふうに続き、それが結核の昂進もふくめて、どんな重篤な症状を引き起こしかねなかったのか。この時期にも医師は近親者の来院を押さえたのか。危篤は突然に起こったのか。実際の病状の変遷が記録されていない以上、恣意な想像は無意味でしかありません。
『智恵子相聞-生涯と紙絵-』 北川太一 平成16年(2004) 蒼史社)
 
結局、無理に答えを見つける必要もないのかもしれません。
 
繰り返しますが、南品川ゼームス坂病院で智恵子が息を引き取ったのは、昭和13年(1938)10月5日。その日の様子を光太郎は次のように記します。
 
百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛隣の情の訴でもある。(略)最後の日其をひとまとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した表情であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。
(「智恵子の半生」 昭和15年(1940))
 
「其をひとまとめに自分で整理して置いたもの」の中に、例の「くだものかご」の紙絵も入っていたわけです。あらためてそれを見た光太郎の胸中はいかばかりか……。
 
そう考えると、「これは何の果物だろう」などと、脳天気に見ることはできない作品なのです。
 
さて、その後、太平洋戦争000が勃発。昭和20年(1945)4月には、駒込林町の光太郎アトリエは空襲で焼け落ち、多くの彫刻作品は灰燼に帰しました。
 
しかし、智恵子の残した紙絵は、そうなることを予想していた光太郎の機転で、花巻、茨城取手、山形の三カ所に分けて疎開させており、無事でした。自身の彫刻は焼けるに任せた光太郎も、智恵子の紙絵は事前に保護策を講じていたのです。そのおかげで、現代の我々も、智恵子遺作の紙絵を実際に見ることができるわけです。
 
こうした点も踏まえ、「五ヶ月の空白」の意味を捉えることも重要なのではないかと思われます。
 
そして、こうした点を踏まえ、皆さんには智恵子の紙絵の本物を見ていただきたいと思います。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、千葉市美術館さんでは8/18(日)まで。8/30(金)から、岡山県井原市田中美術館さん。その後、11月には愛知県碧南市藤井達吉美術館さんへと巡回されます。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月31日

昭和29年(1954)の今日、映画会社・新東宝が『智恵子抄』映画化を光太郎に申し入れましたが、断っています。