昨日、千葉市美術館に行って参りました。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、三度目の観覧です。6/29(土)、オープン初日、関係者によるオープニングレセプションがあり、一度。7/7(日)、当方も喋った関連行事の講演会があり、一度。そして昨日は講演会の日等にいらっしゃれなかった元群馬県立文学館の学芸員の方がいらっしゃるということで、ご案内いたしました。何度見てもいいものです。
 
昨日は特に智恵子の紙絵をしっかり観ました。先日のこのブログでご紹介しましたが、『日本経済新聞』さんのサイトで今回展示されている紙絵に触れており、自分の中で答えの出ていない問題がクローズアップされてきたためです。
 
『日経』さんで取り上げているのは「くだものかご」と題された紙絵です。
 
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高村智恵子「くだものかご」 二玄社『智恵子紙絵の美術館』より
 
籠の上にあるのは何の果物だろう。スイカ、桃、マクワウリ、メロン…。柔らかで微妙な色合いが想像を膨らませる。1枚の紙からつくられた果物は、丸いフォルムと切り口のシャープさが目を引く。醸し出すのは鮮烈な存在感。一つ一つの果物に注がれた、優しくも鋭い智恵子のまなざしのまなざしまで目に浮かんでくるようだ。さて、あなたはどう見ますか。

 
しかし、ある意味、この紙絵は「何の果物かな」と脳天気に見られるものではないのです。
 
ご存じない方のために概略を書きますと、昭和6年(1931)、光太郎が三陸旅行中に智恵子が統合失調症を発症し(もっと早くに発症していたという説もありますが)、翌年には自殺未遂、同9年(1934)には九十九里にいた妹夫婦(智恵子の母・センも身を寄せていました)のもとに転地療養、しかし病状は悪化、同10年(1935)に南品川のゼームス坂病院に入院します。一連の紙絵は入院中、おそらく同12年(1937)から13年(1938)にかけて制作されたようです。そして智恵子の死は13年10月。直接の死因は肺結核でした。
 
さて、果物かごといえば、かつては病気見舞いの定番でした。では、この果物かごは光太郎が持参したものなのでしょうか。しかし、残念ながらどうもそうではないようなのです。
 
毎週一回か二回、かならず伯父さまのいいつけで銀座の千疋屋から季節の果物、それに鉢植えの花を届けられた。化粧籠に盛られたすばらしいゴールデン・デリシヤス、水々しいアレキサンドリア、さまざまな名も知らぬみごとな蘭花、シクラメン、ゼラニユームのいくつもの鉢、ざくろの木、等々。神田の万惣からも西瓜やりんごなど届いた。それを室内に運び入れた時の伯母の嬉しそうな優しい表情がわすれられない。一番の楽しみはこの伯父さまよりの贈物であつた。
(「紙絵のおもいで」宮崎春子 『高村光太郎と智恵子』草野心平編所収 昭和34年(1959) 筑摩書房)
 
宮崎春子は智恵子の姪。看護婦資格を持ち、ゼームス坂病院入院後に智恵子の付き添いとなりました。
 
「一番の楽しみはこの伯父さまよりの贈物であつた。」とありますが、一番の楽しみは光太郎本人の見舞いではなく、こうして「届けられた見舞品」だったというのです。
 
光太郎、実はあまりゼームス坂病院に足を向けませんでした。智恵子が亡くなった日には枕元にいましたが、なんとそれが五ヶ月ぶりの来院でした。
 
今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく又恢復してくれればいいと念じてゐます、 
(智恵子の母・セン宛光太郎書簡)
 
智恵子が九十九里で療養していた頃は、毎週のように見舞いに訪れていた光太郎が、なぜ同じ東京で五ヶ月も智恵子を見舞わなかったのでしょうか。しかも結核は重篤で、五ヶ月ぶりに見舞ったその日に智恵子は亡くなったのです。
 
この点を手厳しく批判する向きもあります。
 
すでに「人間界の切符を持たない」古女房をそう足しげく見舞えという方が無理かもしれない。だが、『智恵子抄』を純愛詩集として読む人は、それが五ヶ月も妻を病院に放ったらかしにしていた男の手になるものだということを忘れないほうがいい。
(『詩人の妻 高村智恵子ノート』 郷原宏 昭和58年(1983) 未来社)
 
智恵子「東京市民よ、集まれ! 今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどいさまです……五ヶ月ぶりで智恵子にあひました、五ヶ月ぶりで智恵子にあひました、五ヶ月ぶりで智恵子にあひました。遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類い希なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ!  これは智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! (略) そして五ヶ月ぶりにやってきた光太郎の目の前で智恵子は、すなわち私は死んでいくのであります。けれども、詩人によればこんな私でさえもこんなにも、綺麗に死なせてくれたのであります。
智恵子抄 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白く明るい死の床で (略) 」
(「売り言葉」 『二十一世紀最初の戯曲集』野田秀樹 平成15年(2003) 新潮社)
 
長くなりましたので、続きは明日。すみません。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月30日

昭和26年(1951)の今日、雑誌『日曜日』掲載のため、文学を愛好した精神科医・式場隆三郎と対談しました。