過日、昭和9年(1934)に智恵子が療養した九十九里を訪れ、帰ってからネットでその近辺についてもう一度調べました。
すると、智恵子に関しいろいろと情報を載せている「阿多多羅山」というサイトがあり、それにより意外な事実がわかりました。以下、抜粋させていただきます。
海岸通りの県道に面して「智恵子療養の跡地」と墨で書かれた白い標柱が立っています。ここに智恵子が療養していた「田村別荘」があったといわれています。精神分裂症が悪化した智恵子は、昭和九年一九三四)五月から十二月まで、転地療法のため母や妹家族と一緒にこの家に住んでいました。智恵子一家が去った後の「田村別荘」は、地元の人が買い取り、対岸の大網白里町へ移された後「智恵子抄ゆかりの家」として再築して保存されました。
しかし、年月が経ち、訪れる観光客も少なくなった一九九七年頃、前夜の強風雨で家屋が被害を受けたのを機に、取り壊わされて跡形もなくなりました。
「智恵子抄ゆかりの家」は取り壊わされましたが、「田村別荘」が本来あった真亀納屋の住居跡に、田村別荘跡を示す白木の標柱を建て、史跡を守ろうとする人がいました。
海岸通りの県道に面して「智恵子療養の跡地」と墨で書かれた白い標柱が立っています。ここに智恵子が療養していた「田村別荘」があったといわれています。精神分裂症が悪化した智恵子は、昭和九年一九三四)五月から十二月まで、転地療法のため母や妹家族と一緒にこの家に住んでいました。智恵子一家が去った後の「田村別荘」は、地元の人が買い取り、対岸の大網白里町へ移された後「智恵子抄ゆかりの家」として再築して保存されました。
しかし、年月が経ち、訪れる観光客も少なくなった一九九七年頃、前夜の強風雨で家屋が被害を受けたのを機に、取り壊わされて跡形もなくなりました。
「智恵子抄ゆかりの家」は取り壊わされましたが、「田村別荘」が本来あった真亀納屋の住居跡に、田村別荘跡を示す白木の標柱を建て、史跡を守ろうとする人がいました。
九十九里町役場に隣接する「九十九里いわし博物館」に勤める町臨時職員で学芸員の永田征子(元高校教諭)です。当時、智恵子が療養していた田村別荘跡は、現在プチホテル「グリーンハウス」とテニスロッジ「あぶらや」が経営するテニスコート場内にありました。テニスコート場の中間に残された低い土塁あたりが、当時智恵子の療養していた田村別荘のあった場所だそうです。当時、ここは黒松の防風林で、田村別荘から漁師の藁葺屋根の先に、九十九里の波打ち際が見えたと言われています。
永田征子は地主の了解を貰い、九十九里町教育委員会の協力を得て、記念の標柱を製作し建てることにしました。二〇〇四年七月二十九日夕方、地主に立ち会ってもらい、永田は「ここに建てさせていただきたいのですが」と、テニスコートの入口で県道に面した場所を決めました。その場で、教育委員会の係員の手で、「智恵子療養の跡地」と筆文字で書かれた木製の白い標柱が建てられたのです。
永田征子は地主の了解を貰い、九十九里町教育委員会の協力を得て、記念の標柱を製作し建てることにしました。二〇〇四年七月二十九日夕方、地主に立ち会ってもらい、永田は「ここに建てさせていただきたいのですが」と、テニスコートの入口で県道に面した場所を決めました。その場で、教育委員会の係員の手で、「智恵子療養の跡地」と筆文字で書かれた木製の白い標柱が建てられたのです。
その翌日の七月三十日朝、「九十九里いわし博物館」内で、ガス爆発事故がありました。博物館の一部が大破し、書庫で仕事をしていた永田征子はその事故で即死したのです。千葉県警の調べでは、爆発現場とされる文書収蔵庫の床下の数カ所からガスの成分が噴き出していて、爆発原因は地面から噴き出た天然ガスの可能性が高いとみられています。
光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」や、「智恵子療養の跡地」の標柱などは、千鳥の遊ぶ浜辺と共に、今も九十九里町に人々に大切にされています。
驚きました。九十九里いわし博物館での爆発事故は、同じ千葉県内ということもあり、記憶に残っていましたが、その時亡くなった方が智恵子顕彰の活動をされていたとは存じませんでした。さらに、過日見てきた標柱ができた翌日に事故に遭われていたとは……。
ちなみに爆発事故を報じた当時の報道の抜粋です。
千葉・九十九里のいわし博物館で爆発 1人死亡1人重体
同町役場によると、開館は午前9時で、爆発が起きた時、館内には8時半に出勤した職員2人がいたという。
現場は町の中心部。隣にある九十九里町役場では、「ドーン」という大きな音がして、席に座っていた職員たちもビリビリという震動を感じた。職員が驚いて見に行くと、博物館から白い煙が上がり、20センチほどのコンクリート片が駐車場などに散乱していた。
最初は爆発の原因がわからなかったのですが、続報によれば……
爆発を引き起こしたのは、横浜・川崎の湾岸地域から千葉県にかけての関東平野南部地域に広がる「南関東ガス田」の天然ガス。千葉県警は、地表にわき出た天然ガスが文書収蔵庫のコンクリート床の亀裂から室内に入り充満、引火して爆発したとみている。
とのことです。
9年前の事故ですが、改めてご冥福をお祈りいたします。
ちなみに在りし日の田村別荘、こんな感じでした。最後の画像は取り壊された直後。この時点ではサボテンの木が残っていましたが、もうありません。
爆発を引き起こしたのは、横浜・川崎の湾岸地域から千葉県にかけての関東平野南部地域に広がる「南関東ガス田」の天然ガス。千葉県警は、地表にわき出た天然ガスが文書収蔵庫のコンクリート床の亀裂から室内に入り充満、引火して爆発したとみている。
とのことです。
9年前の事故ですが、改めてご冥福をお祈りいたします。
ちなみに在りし日の田村別荘、こんな感じでした。最後の画像は取り壊された直後。この時点ではサボテンの木が残っていましたが、もうありません。
【今日は何の日・光太郎】 6月22日
昭和27年(1952)の今日、裸婦像建造のための十和田湖視察を終え、花巻郊外太田村山口の小屋に帰りました。