昨日のブログでご紹介しましたが、かの夏目漱石は美術にも造詣の深い作家でした。
まとまった展覧会評としては唯一のものだそうですが、大正元年(1912)の『東京朝日新聞』に、12回にわたって「文展と芸術」という評論を書きました。「文展」とは「文部省美術展覧会」。いわゆるアカデミズム系の展覧会で、正統派の美術家はここでの入選を至上の目標にしていたと言えます。第一部・日本画、第二部・西洋画、第三部・彫刻の部立てで、上野公園竹之台陳列館で開催されていました。大正元年で6回めの開催でした。
さて、漱石の「文展と芸術」。その第一回の書き出しはこうです。
さて、漱石の「文展と芸術」。その第一回の書き出しはこうです。
芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである。
注・当時は送り仮名のルールがまだ確立されていませんので、「はじまって」は「始まつて」ではなく「始つて」、「おわる」も「終わる」でなく「終る」と表記されています。
この漱石の言に光太郎が噛みつきました。
『読売新聞』にやはり12回にわたって連載された光太郎の文展評「西洋画所見」の第8回で、光太郎はこう書きます。
この頃よく人から芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく。此は夏目漱石氏が此の展覧会について近頃書かれた感想文に流行の 源(みなもと)を有してゐるのだといふ事である。
(中略)
私の考へでは此一句はかなり不明瞭だとも思へるし、又曖昧だとも思へる。殊に芸術作家の側から言ふと不満でもある。
(中略)
私の考へでは此一句はかなり不明瞭だとも思へるし、又曖昧だとも思へる。殊に芸術作家の側から言ふと不満でもある。
光太郎の論旨は、芸術作品に自己が投影されるのは当然のことであり、ことさら「自己を表現しよう」と思って制作を始めたことはなく、漱石の「自己の表現に始つて」という言には承服できないということです。
ただし、光太郎は「文展と芸術」を熟読していなかったようで、「西洋画所見」中には
私はつい其(注・「文展と芸術」)を読過する機会がなかつたので、此に加へた説明と條件とを全く知らないでゐる。
という一節もあります。
こうした光太郎の態度に漱石は不快感を隠しません。十一月十四日付の津田青楓宛て書簡から。
高村君の批評の出てゐる読売新聞もありがたう 一寸あけて見たら芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ小生の言を曖昧だといつてゐます、夫から陳腐だと断言してゐます、其癖まだ読まないと明言してゐます。私は高村君の態度を軽薄でいやだと感じました夫(それ)であとを読む気になりません新聞は其儘たゝんで置きました。然し送つて下さつた事に対してはあつく御礼を申上ます
実は漱石の言は、芸術は何を表現するのか、芸術は誰のためにあるのかという問いに対する謂で、間接的に文展出品作の没個性や権威主義を批判するものであり、よく読めば光太郎は反論どころか共鳴するはずだという説が強いのです(竹長吉正『若き日の漱石』平成七年 右文書院 他)。
結局、漱石の方では黙殺という形を取り、論争には発展しませんでしたが、「文展と芸術」をよく読まず噛みついた光太郎に非があるのは明白です。
漱石は度量の広いところもありました。この年、時を同じくする十月十五日から十一月三日まで、読売新聞社三階で、光太郎、岸田劉生、木村荘八らによるヒユウザン会(のち「フユウザン会」と改称)第一回展覧会が開催され、反文展の会と話題を呼びました。光太郎は油絵「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」を出品。このうち「つつじ」は漱石と一緒に会場を訪れた寺田寅彦に買われたそうです。一緒にいた漱石は別に寺田を咎めたりはしていません。
ちなみに智恵子の出品も予告されたが実現しませんでした。
こうしたバトルについて、現在開催中の「夏目漱石の美術世界展」、それにリンクした雑誌『芸術新潮』の今月号、NHK制作の「日曜美術館」等で取り上げてくれれば、と残念です。
テレビで取り上げる、といえば、昨夜放映されたBS朝日の番組「にほん風景遺産「会津・二本松 二つの城物語」」で、光太郎の詩「あどけない話」「樹下の二人」が紹介されました。ありがたいことです。
【今日は何の日・光太郎】 6月5日
昭和8年(1933)の今日、岩波書店から「岩波講座 世界文学」第七回配本として、光太郎著『現代の彫刻』が刊行されました。
当時の世界の彫刻界について、非常にわかりやすく書かれています。
当方、昔、神田の古書店で200円で購入しました。確かにペーパーバックの薄い書籍ですが、それにしても200円は光太郎に失礼だろう、と憤慨しつつ買いました。安く手に入ったのはいいのですが(笑)……。