京阪に行って参りました。2回に分けてレポートします。
昨日の夜、居住地から夜行バスで京都に向かいました。夜行バスなるものを使うのは初めてでした。午後9時に出発、今朝6時20分に京都駅八条口に到着。運賃は片道で8820円。新幹線を利用するより格段に安い金額ですし、眠っている間に着くので時間の有効活用という意味でもいい方法でした。ただし、寝心地はあまりよくありませんでした。乗り心地を取るか、時短と金額の安さを取るか、という選択ですね。
目指すは嵯峨野の大覚寺さん。霊宝殿という宝物館で先月から「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展が開かれていまして、昨年末、新たに大覚寺さんで発見された光雲の木彫三点が初めて公開されています。
図録は刊行されず、上記のチラシが図録代わりでした。
発見された木彫は3点。いずれも20センチちょっとの小さなものですが、光雲の職人技が冴えわたっています。
最も古いのが「木造聖観音菩薩立像」。大正5年(1916)4月3日と箱書にありました。
続いて「木造白衣大士」。箱書は大正6年(1917)12月。こちらはチラシに画像がありません。
もう1点が「木造聖徳太子孝養像」。大正7年(1918)11月23日作の箱書。
光雲は多くの弟子を抱え、弟子がメインで作った作品も光雲が仕上げに手を入れれば光雲のクレジットが入る、という工房スタイル-ガラス工芸のエミール・ガレの工房と似ています-だったとのことですが、弟子の手がほとんど入っていない場合のクレジットは「高邨光雲」となっているそうです。今回の3点は全て「邨」が使われていました。
それから、元々大覚寺さんにあることが知られていて、報道はされなかったのですが、光雲筆の墨画「ひよこ図」(昭和9年=1934)も展示されていました。逆に当方はこの作品の存在を知らず、こんなものもあったんだ、という感じでした。
それ以外には、こちらの研究とは関わりませんが、鎌倉~江戸期の五大明王像や、堂宇内の狩野派の障壁画など、観るべきものが多く、また、市街地から離れた嵯峨野の風情も堪能いたしました。
「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展は明後日までですが、今後も寺宝の一つの目玉として、光雲作品は常設で観られるようにしてほしいものです。
午後からは大阪・堺にて与謝野晶子忌日・白桜忌に初めて参加して参りました。明日はそちらをレポートします。
【今日は何の日・光太郎】 5月29日
昭和14年(1939)の今日、茨城県取手市の長禅寺で、光太郎が題字のみ揮毫した「小川芋銭先生景慕の碑」が除幕されました。
小川芋銭(うせん)は、茨城県牛久沼のほとりに暮らし、河童の絵を描き続けた日本画家です。光太郎と同じく、取手の分限者、宮崎仁十郎(その息子、稔は光太郎が出雲の神となって、智恵子の看護をした姪の春子と結婚します)と交友があり、その縁で光太郎が碑の揮毫をしました。また、光太郎は同じ年に「芋銭先生景慕の詩」という詩も書いています。
取手長禅寺さんにはもう一つ、光太郎が題字を揮毫した「開闡(かいせん)郷土」碑も残っています。