【今日は何の日・光太郎】5月11日

昭和3年(1928)の今日、詩「あどけない話」を書きました。
 
 智恵子は東京に空が無いといふ、002
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながら言ふ、
 阿多多羅山の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。
 
右の画像は、福島二本松の智恵子生家と「ほんとの空」です。昨年9月に撮影しました。
 
さて、「あどけない話」。「ほんとの空」というフレーズは、東日本大震災以来、一種、反原発の象徴的に使われています。
 
それはそれでいいのですが、実は難しい詩です。
 
「東京に空がない」と言っても、85年前ですから、「大気汚染で汚れた空しか見えない」というわけではありません。
 
「空」=「心のよりどころ」または「自分の居場所」とでもいえるような気がします。
 
智恵子は洋画家を志し、結婚(大正3年=1914)前には、実際に展覧会に作品を出したり、雑誌『青鞜』の表紙絵を描いたりといったことをしていました。
 
そして同じく「美」の道を志す光太郎と出会い、惹かれ合い、そして結ばれました。二人の間には、一種の「同志愛」的な要素もあったのではないかと思います。
 
しかし、光太郎の彫刻や詩は徐々に世に認められていったのに対し、智恵子の絵はなかなかそうはなりませんでした。いわゆる「ジェンダー」の立場の方々は、光太郎との生活の中で、女性である智恵子が自分を犠牲にせざるをえなかったからだと論じています。光太郎自身もそのようなことを書いています。
 
その上、智恵子は健康面でもあまりすぐれなかったこと、二人の間には子供もおらず、さらには智恵子には友人も少なかったこと、二本松の実家・長沼家がだんだん傾いていたことなど、智恵子にとってはつらい要因が重なっていました。
 
そんな時に、智恵子はよく福島に一人帰省して、ガス抜きをしていたようです。
 
この「あどけない話」の解釈として、昔、当方は、智恵子の心の叫びを理解せず、「あどけない」と処理してしまった時点で、後の大きな悲劇=智恵子の統合失調症発症は決定的になったのだ、と書いたことがありました。
 
ところが後に、当会顧問・北川太一先生に「違う」と一喝されました。
 
北川先生曰く、この詩が書かれた前日に、不動産登記簿によれば長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けており、光太郎がこうした事情を知らなかったはずがないというのです。ちなみに明くる昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべきふるさと、そして「ほんとの空」を失います。
 
実家の斜陽化に心を痛め、しかしどうしてやることもできず、子供のように涙を流す智恵子。さらにそれを知りつつどうしてやることもできない光太郎。そういう姿が見えてきます。
 
しかし、どうしてそれが「あどけない話」なのか、実はまだよくわかりません。二人の「生」のありようを追い求めていくことで、その答えに近づくことができるのでしょうか。そうであってほしいものです。