4/22(月)に安曇野市穂高の碌山美術館で行われた碌山荻原守衛の命日「碌山忌」のレポートです。
午後から館の庭で地元の皆さんによるコンサートがありましたが、そちらは欠礼いたしました。4時頃に「碌山友の会」の方などが車を出してくださり、4㎞ほど離れた場所にある守衛の墓参に行きました。
その後、5時から研究発表ということで、学芸員補・濱田卓二氏による「荻原守衛と片岡当(まさ)の交友-岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」が行われました。
守衛は、はじめ画家を志し、明治32年(1899)に上京、画塾・不同舎に通うため、明治女学校の敷地内にあった草庵で1年半ほど暮らします。
一方の片岡当は守衛より一つ年上。守衛が東京で暮らしていた頃、明治女学校に在学しており、ここで二人の交流が始まったとのこと。
守衛は明治34年(1901)に留学のため渡米。しかし、苦労の連続でした。その時、折れそうになる心を救ったのが片岡当からの手紙で、それを読んで一念発起、再び頑張ることができたそうです。そんな縁で守衛は恩人の井口喜源治に宛てた手紙の中で、当を「岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」と紹介していたわけです。
その後、明治37年(1904)にロダンの「考える人」を見て彫刻に転向、同39年(1906)にニューヨークに来た光太郎と知り合い、やがて意気投合します。
相前後して帰朝した守衛と光太郎、共に手を携えて新しい彫刻を日本に根付かせるつもりでいましたが、明治43年(1910)、守衛は急逝。光太郎の衝撃はいかばかりであったことか……。
その一端を示すのが、穂高からやはり親友だった陶芸家のバーナード・リーチに送った以下の葉書です。
殴り書きのような文字、そして文面からは、同志を失った悲しみと、そして怒りも感じられます。
片岡当はその頃、郷里岡山で教員をしていたそうですが、守衛の死を新聞で知り、日記にその衝撃を記しています。勤務先の学校でその記事を目にして涙を流したこと、自宅に保管してあった守衛からの来翰21通(現存せず)を引っ張り出して感懐にふけったことなどが記されています。
当は、翌年には穂高の守衛の墓に詣で、守衛の実家の人をして「あんな女性が奥さんになってくれていたらよかった」と言わしめたとのこと。その後、官吏と結婚し京城に渡り、終戦後に帰国。昭和36年(1961)に亡くなったそうです。
こうした経緯はすでに知られていたことだそうですが、濱田氏の発表では、岡山市内の当の実家のあった辺りの様子、当の日記の問題のページの画像などが提示され、また、明治女学校内にあった守衛の暮らした草庵の場所等も特定したり、興味深いものでした。
サプライズがありました。当のお孫さんにあたる岩田圭二氏が西東京市からいらしていました。氏の話によれば、当はその晩年に守衛が好きだったと、近親者にもらしていたそうです。
ドラマチックですね。
研究発表のあと、館内のグズベリーハウスという建物にて、「碌山を偲ぶ会」が催されました。山田理事長、所館長をはじめ館の皆様や、荻原家の現当主の方、守衛研究者の仁科惇先生、先ほどの岩田氏、「碌山友の会」の皆さんなど、約30名ほどでしたか、飲んで食べて、守衛について語り合いました。当方も簡単にスピーチ。
長野県出身のシンガーソングライター、三浦久氏も参加されており、ずばり「碌山」という曲の入ったCDアルバムをいただいてしまいました。ありがとうございます。
8時過ぎにお開きとなり、それから愛車を駆って千葉に帰りました。さすがに自宅に帰り着いたのは日付が変わってからになりましたが、有意義な2日間でした。
碌山忌、碌山を偲ぶ会、参加は自由のようです。当方、他に何もない限り毎年参加することになりそうです。ぜひ皆さんも足をお運びください。
【今日は何の日・光太郎】4月24日
平成16年(2004)の今日、福島県立美術館で企画展「高村光太郎展」が開幕しました。
同展はその後、東京の損保ジャパン東郷青児美術館(7/7~8/29)、広島のふくやま美術館(10/1~11/28)を巡回しました。
同展はその後、東京の損保ジャパン東郷青児美術館(7/7~8/29)、広島のふくやま美術館(10/1~11/28)を巡回しました。