光太郎の親友だった碌山荻原守衛の命日・碌山忌に参加のため、1泊2日で長野に行って参りましたのでレポートいたします。
21日(日)の朝、長野に向けて出発しました。昨年は電車で行ったのですが、どうも車で行った方が早いし、現地で動きがとれると考え、今年は自家用車で行きました。しかし観測史上もっとも遅い雪だったそうで、中央道から長野道に入ったあたりではまだ雪が降っていました。
昼過ぎに安曇野の碌山美術館に到着

氏は光太郎の実弟で、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ鋳金家の豊周(とよちか)のご長男です。
豊周はほとんどの光太郎塑像の鋳造を担当し、のちに鋳金の道で人間国宝にも選ばれました。家督を継いだため、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の155番地の光雲邸に住み、氏は現在もここで生活なさっています。
光太郎も明治45年(1910)に同じ林町の25番地にアトリエを建ててもらって独立するまでここで暮らしていました。
アトリエ竣工後は光雲邸は「155番地」、光太郎アトリエは「25番地」と、お互い番地で呼び合っていたそうで、氏も光太郎を「25番地の伯父さん」と呼んでいたそうです。
題目の通り、幼少年期から青年期にかけての光太郎の思い出がいろいろと語られ、聴衆は興味深げに聞き入っていました。
碌山忌自体は翌日の22日なので、当方、この日は長野に1泊しました。安曇野から1時間ほどの上田市にある別所温泉に宿を取っておきました。
別所温泉、光太郎は昭和2年(1927)の7月に白根、草津などとともにこの地を訪れています。ただ、どの宿に泊まったなどの詳細は不明です。
以前のブログにも書きましたが、当方にとっては、麓の塩田という地区に父親の実家があり、子供の頃から慣れ親しんだ温泉です。
ゆっくり温泉につかり、翌日。碌山美術館には16時からの守衛墓参に間に合えば良いと思い、別所から塩田、隣接する青木村、旧武石村などにある寺社仏閣、城跡などを探訪しました。当方先祖の墓参りも致しました。塩田は鎌倉時代に北条氏によって栄え、戦国時代にはかの武田信玄も居留した地です。「信州の鎌倉」と呼ばれ、平安末から鎌倉にかけての寺社仏閣が数多く残されており、木造三重の塔や茅葺きの堂宇、変わった形の神社建築など、歴史遺産の宝庫です。また、旧武石村には当方の先祖(真田家に仕えていたそうです)が開いたという山城の跡があり、ここは今回初めて訪れました。
また、塩田の一角にある信濃デッサン館さんも観て参りました。光太郎と縁のあった画家、村山槐多の作品などが展示されています。


千葉ではとっくに散ってしまった桜や連翹も真っ盛りでした。しかし、雪と花が同時に見られるとは思っていませんでした。
15時過ぎに安曇野に到着、守衛の墓参に参加、その後は学芸の方による研究発表と、「碌山を偲ぶ会」という懇親会です。そちらはまた明日。
【今日は何の日・光太郎】4月23日
昭和29年(1954)の今日、筑摩書房から刊行の『現代日本文学全集24 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治』の口絵用に、「いろはにほへと」と揮毫しました。
