昨日、目黒区駒場の日本近代文学館に行って参りました。
 
先月ご紹介した同館で開催している講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」を聴講するためです。
 
全6回の講座の1回目で、題は「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」。講師は上智大学教授の小林幸夫先生でした。光太郎、鷗外、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子を語られ、非常に興味深い講座でした。
 
親子ほど年の違う二人の交流、主に二つの出来事が扱われました。
 
まず、光太郎が東京美術学校在学中だった明治末の話。鷗外が非常勤の講師として美術学校の「美学」の授業を担当しました。どうも若き光太郎、「権威」には反発したがる癖があったようで、偉そうな鷗外に親しめませんでした。その最後の講義の日、頓狂な質問をした級友がこっぴどく怒られたエピソードを、光太郎は後々まで繰り返し語っています。
 
さらに大正に入ってから、やはり権威的だった鷗外を揶揄し、「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、光太郎を自宅に呼びつけて叱責したとのこと。鷗外はこの件を雑誌『帝国文学』に載った「観潮楼閑話」という文章に書いています。光太郎も後に高見順や川路柳虹との対談などで回想しています。
 
といって、光太郎は鷗外を嫌悪していたわけではなく、それなりに尊敬していましたし、鷗外は鷗外で、つっかかってくる光太郎を「仕方のないやつだ」と思いつつもかわいがっていた節があります。
 
今回の講座ではそういう話は出ませんでしたが、光太郎が明治末に徴兵検査を受けた際、身長180センチくらいの頑健な光太郎が徴兵免除となりました。理由は「咀嚼(そしゃく)に耐えず」。確かに光太郎、歯は悪かったのですが、それにしても物が噛めないというほどではありません。これはどうしたことかと思っていたら、帰り際に係官の軍人が「森閣下によろしく」とのたまったとのこと。軍医総監だった鷗外が、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったらしいのです。
 
微笑ましいといえば微笑ましい交流ですね。
 
小林先生もおっしゃっていましたが、「文豪」たちのこうした人間的な側面が垣間見えるところに、文学のある種のおもしろさがあるような気がします。
 
同館では、講座とは別に企画展も開催中です。題して「花々の詩歌」。

 
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「文豪」たちの「花」を題材にしたさまざまな作品-主に自筆資料-が並んでいます。夏目漱石が相思相愛だったとも伝えられる大塚楠緒子の死に際して詠んだ有名な句「あるほどの菊なげ入れよ棺のなか」の短冊や、有島武郎が心中の直前に作った短歌「明日知らぬ命の際に思ふこと色に出つらむあじさいの花」の短冊など、見応えのあるものばかりです。
 
それらにまじって、大正期に第二次『明星』のために光太郎が描いた花々のカットも4点展示されています。チラシの右上に載っています。
 
会期は6/8(土)まで。



今日、明日と、信州安曇野の碌山美術館に行って参ります。光太郎の親友だった彫刻家碌山荻原守衛の命日、碌山忌と、記念講演で光太郎の令甥、高村規氏の「伯父 高村光太郎の思い出」があります。
 


【今日は何の日・光太郎】4月21日

明治45年(1912)の今日、上野竹の台陳列館において第10回太平洋画会展覧会が開幕しました。智恵子が油絵「雪の日」「紙ひなと団扇絵」を出品しました。
 
どちらの作品も現存が確認されていません。どこかから出てこないものでしょうかね……。