昨日は武者小路実篤の命日でした。武者小路はご存じの通り白樺派の中心人物の一人で、同人だった光太郎とも縁の深かった人物です。
しかし、意外なことに光太郎から武者小路本人に宛てた書簡は、現在のところ一通しか確認できていません。もう一通、武者小路の古稀祝賀会宛を確認していますが、住所が「新しき村」東京支部の新村堂内になっており、武者小路本人に宛てたものではありません。
どうも武者小路は手元に古い物を残さないたちだったようで、遺品の中に本人に関わる資料が少なく、昭和60年に調布に武者小路実篤記念館ができた際にも、収蔵品の数は多くなかったそうです。代表作『友情』の初版本すら遺品には入ったいなかったとのこと。したがって、来翰類も本人が処分してしまっていたと推定されます。
ただ、どこかからごっそりまとめて出てくる可能性も捨てきれません。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。
さて、唯一確認されているものは調布の武者小路実篤記念館所蔵のはがきで、昭和23年(1948)5月、花巻郊外太田村山口の山小屋から送られたものです。
おてがみいただきました。あの変な詩を快く受け入れて下さつた事を感謝してゐます。雑誌からもらつた金は大いに助かりました。新しい村三十年記念展覧会に出品の事まだ何ともお答へ出来ません。穣さん御承知の通りの光線メチヤメチヤな小屋なのでまだ本格的な彫刻は始めません。やつと板彫とか帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎないので、東京の展覧会に送るのはどうかと思つてゐますが、いづれ来月■手紙で申上げる事にいたします。今日は茄子の移植をやります。
文中の「■」は染みのため判読不能の文字です。
「あの変な詩」は、この年、武者小路が主幹となって発刊された雑誌『心』に掲載された詩「人体飢餓」と推定されます。「穣さん」は武者小路の娘婿。当時日本読書購買利用組合に勤務しており、光太郎が編集に当たった『宮沢賢治文庫』の出版に関わっており、太田村の小屋も訪れました。
さて、最も注目されるのは「やつと板彫とか帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る」。
太田村の山小屋での7年間での、光太郎の彫刻らしい彫刻は一点も確認されていません。確認できているものはわずかに、詩集『典型』の題字の自刻木版、山小屋の便所の壁に彫った「光」一字(これらは「彫刻」というより「書」の延長といえます)、没後に山小屋の囲炉裏の灰から見つかった粘土の「野兎の首」程度です。
本当に板彫りや帯留めを作っていて、確かにそれと確認できるものが見つかれば、大ニュースです。花巻周辺のどこかに残っている可能性も高いので、今後に期待します。
ところで、山小屋時代の光太郎の短歌に次の作があります。
太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは
現存が確認できている「蝉」の木彫は4点。すべて戦前のものです。本当に山小屋でも蝉を彫っていたのでしょうか? 残された日記や書簡、周辺人物の回想等を読む限り、どうもそうではない気がしてなりません。結局、光太郎の詩歌はすべてがドキュメントではない証左と言えるのではないでしょうか。
といいつつ、山小屋時代の蝉が見つかる可能性も皆無ではありませんが……。
追記 光太郎と交流のあった詩人・竹内てるよの回想に、山小屋で「蝉」を見たということが書かれていました。また、京都の骨董商さんで、5点目の「蝉」が出てきました。
余談になりますが、6月29日から千葉市立美術館で開かれる企画展「彫刻家・高村光太郎展」。担当学芸員の藁科氏と連絡を取りつついろいろ進めていますが、先日、ポスター及びチラシの原案が送られてきました。現存する「蝉」のうちの一点をドーンと大写しにした構図で、なかなか今までにない斬新なものです。ご期待下さい。
【今日は何の日・光太郎】4月10日
昭和32年(1957)の今日、新宿大曲の観世会館で、武智鉄二構成演出、観世寿夫節附・作舞による新作能「智恵子抄」が上演されました。
結局、実現しませんでしたが、光太郎、この能のために自作の面を作ろうと、スケッチを残しています。
結局、実現しませんでしたが、光太郎、この能のために自作の面を作ろうと、スケッチを残しています。