【今日は何の日・光太郎】3月14日

昭和25年(1950)の今日、講演旅行を終え、地元の青年二人の引く橇(そり)に乗って花巻郊外太田村山口の山小屋に帰りました。
 
『高村光太郎全集』別巻収録の年譜によれば、「三月十日、秋田県横手町で講演、二、三日滞在し、黒沢尻をまわって十四日に帰る。」の記述があります。『全集』には漏れていましたが、13日には黒沢尻町(現・北上市)でも講演を行いました。その際の筆録が残っており、「高村光太郎講演会」という題で「光太郎遺珠④」(平成21年=2009『高村光太郎研究(30)』所収)に収めてあります。
 
この筆録は岩手県北上市教育委員会発行の『きたかみ文学散歩』(平成16年=2004)から転載させていただきました。筆録の最後には、筆録をした黒沢尻町の小学校教諭斎藤充司による「●おしまいに」という短文が附されています。
 
講演の日、高村先生は、森口氏宅でにわとりの丸焼きを食べ、十四日の朝、郡司忠治氏と菊池啓治郎氏がつきそって山口の小屋に帰っていきました。雪道をそりにのせて、二人は汗だくだったようです。十三日の食事には、森口氏、郡司直衛氏、郡司忠治氏、小田島専司氏が加わっていました。
 
また、一緒に食事をした郡司直衛氏の回想も載っています。
 
 黒沢尻の駅に降り立った高村光太郎は、大きな防空頭巾にどんぶくはんど(綿入レ半纏)を着てリュックサックに防寒靴。全くの村夫子然。日本で初めてベレー帽をかぶって銀座を歩いたモダンボーイと誰が思うものか。
 横手の雪をみての帰途、「もう私には残された時間がないから」と云うのをお願いして講演会を開く。その講演に先立ち、お昼を茅葺の民家の二階で差し上げた。そこには空襲で家を焼かれた森口多里が疎開していた。
 その日は昭和二十五年の「三月十三日」。光太郎の誕生日であった。昼食のメニューは鶏の丸焼きにコリフラワとオニオン添え、これは森口夫人の力作で、それに母が手造りの五目ずしという簡素なものであった。具が美味しいとほめられる。母は「高村さんに褒められた」と一生の自慢であった。卓上には発酵し始めた山ぶどうの赤い液が、切子の徳利に入れて添えられていた。当時これが精一杯のもてなしであった。
 食卓は淋しかったが、美の奉仕者である二人の会話は途切れることなく続いた。ロダンの誕生日の話、ハムレットを見ながら気が付くと眼鏡を握りつぶしていた話などなど。森口はパリの街のどこの通りの、何番目のマロニエのどの枝が、一番早く花を咲かせるか知っていると自慢気に話した。二人のパリの思い出は盡きなかった。
 木マンサクもキブシも花にはまだ早く、ネコ柳を一本根元から切って、有田焼の染付の大花瓶に投げ入れ、講演会の壇上を飾った。会場は身動きできぬ程の聴衆で溢れていた。
 講演を終えて、「誕生日には智恵子と食事をするのです」というのを無理に引き止めてお泊まり頂く。翌朝、長ぐつを履こうとする足の大きなこと、靴に添えられた手の大きなこと。私は高村光太郎が〝美の世界の巨人〟であることを、そのときこころではなく、目で理解したのであった。
 
森口多里は美術評論家。岩手県立盛岡美術工芸学校の校長を務めていました。この直後、15日に光太郎から森口に宛てた書簡(『全集』第15巻)が残っています。
 
このたびは思ひもかけず黒澤尻で誕生日を迎へることとなり、貴下はじめ御家族一同のまことにお心こもつた饗宴にあづかり、忘れがたい記念の一日となりました事を深く感謝いたします。あの豪華なチキンをこの日いただいた事をたのしく思ひ出します、又帰途御恵贈の栄養物は山にては中々入手困難のものとてありがたく存じました、 帰路青年達二人に小屋まで送られ、小生足を痛め居りました事とて雪中の行進に大いに助かりました。(略)奥様御令嬢はじめ御一同様にくれぐれもよろしく小生の感謝をお伝へ下さい、
 
この満67歳の誕生日については、昭和51年(1976)読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 201人の証言』にも記載されています。
 
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まだ戦争の爪痕が残り食糧事情も良くなかった時代に、このような歓待を受け、さらに青年二人の引く橇に乗って帰った光太郎。岩手の人々に敬愛されていた証でしょう。