6月29日(土)から千葉市美術館を皮切りに開催される企画展「彫刻家・高村光太郎展」図録のために略年譜等を作成中ですが、やはり光太郎の彫刻は少ない、と思いました。
 
作成中の略年譜には、その年に作ったと判明している彫刻も載せているのですが、空白の年が結構あるのです。当方、光太郎の生涯で、彫刻をあまり作らなかった時期が3回あるととらえていました。
 
1回目は海外留学から帰国した明治末~大正初期。この時期は光雲を頂点とする旧い日本彫刻界と対立、作っても発表する場がない状態で、彫刻より油絵に専念していました。
 
2回目は智恵子の統合失調症がひどかった時期。すなわち智恵子が発症した昭和6年(1931)から智恵子の死の13年頃(1938)。
 
3回目は戦時による物資欠乏から戦後の花巻郊外太田村での隠遁生活の時期。
 
ところが一概にそうともいえないと感じました。智恵子の統合失調症がひどかった時期も、年に2,3作を作っている年もあります。逆に智恵子が亡くなってすぐの昭和14、15年(1939,1940)の方が、年に1作ずつしか記録がありません。また、別に身辺に重大な問題はなかったのに、昭和3年(1928)には1作、翌4年(1929)にはなし。
 
これはどういうことなのかな、と思いましたが、どうも展覧会に発表したり、注文を受けて販売したりしなかったので記録に残っていないのではないかと考えています。少し前の【今日は何の日・光太郎】に書いた日本女子大学校から依頼された成瀬仁像の像も、完成までに14年かかる中で、「毎年一つずつ作っては壊ししていた」的なことを書いていますし、有名な「蝉」の木彫も「10個ぐらいは作った」と書いています。しかし残っている「蝉」は4つ程です。
 
結局、作るだけ作って何処にも発表したり販売したりせず、手元に残っていた彫刻が結構あったのではないかと推定されます。しかし、それらは昭和20年(1945)4月の空襲で、アトリエと共に灰になってしまったわけでしょう。
 
かえすがえすも残念です。
 
さて、図録用に略年譜と共に「参考文献目録」も作成中です。明日はそのあたりについて。
 
【今日は何の日・光太郎】2月28日

昭和4年(1929)の今日、叢文閣から『ロダンの言葉』正続の改装普及版を刊行しました。

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