さて、岡山永瀬清子紀行です。
 
永瀬清子は明治39年(1906)2月17日、岡山県赤磐郡豊田村松木(現赤磐市)に生まれました。亡くなったのは平成7年(1995)2月17日。なんと、誕生日と命日が一緒という偶然です。というわけで、昨日の2月17日にイベント「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」があったわけです。
 
光太郎とは、一昨日の【今日は何の日・光太郎】に書きましたが、昭和9年(1935)、新宿で宮沢賢治を追悼する「第一回宮沢賢治友の会」が開かれ、そこで知り合いました。その席上、遺品の手帳から「雨ニモマケズ」が見つかりました。その後、昭和15年に刊行された第二詩集『諸国の天女』の序文を光太郎が書いています。
 
詩集『諸国の天女』より、表題作です。007
 
  諸国の天女
 
諸国の天女は漁夫や猟人を夫として
いつも忘れ得ず想つてゐる、
底なき天を翔けた日を。
 
人の世のたつきのあはれないとなみ
やすむひまなきあした夕べに
わが忘れぬ喜びを人は知らない。
井の水を汲めばその中に
天の光がしたたつてゐる
花咲けば花の中に
かの日の天の着物がそよぐ。
雨と風とがささやくあこがれ
我が子に唄へばそらんじて
何を意味するとか思ふのだらう。
 
せめてぬるめる春の波間に
或る日はかづきつ嘆かへば
涙はからき潮にまじり
空ははるかに金のひかり
あゝ遠い山々を過ぎゆく雲に
わが分身の乗りゆく姿
さあれかの水蒸気みどりの方へ
いつの日か去る日もあらば
いかに嘆かんわが人々は
 
きづなは地にあこがれは空に
うつくしい樹木に満ちた岸辺や谷間で
いつか年月のまにまに
冬過ぎ春来て諸国の天女も老いる。
 
その後も光太郎との交流は続き、戦後、清子が中野のアトリエを訪れたりもしました。清子の随筆集『かく逢った』(昭和56年=1981 編集工房ノア)の巻頭にはその時の様子が書かれています。
 
さて、昨日、岡山市内のホテルをチェックアウト、せっかく来たのだからと、日本三名園の一つ後楽園と、岡山城を歩きました。 

 
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当方、岡山は山陽自動車道を車で通過したことはありましたが、ちゃんと行ったのは初めてです。
 
その後、岡山駅から山陽本線に乗り、永瀬清子の里、赤磐方面に向かいました。
 
下りるべき駅は熊山駅ですが、そこは通り過ぎ、次の和気駅で下車。せっかく来たのですから、温泉に行かない手はありません。鵜飼谷温泉という温泉があり、入ってきました。よく行く花巻の大沢温泉と同じ、アルカリ性の泉質で、肌がすべすべになりました。
 
寄り道はこの辺にして、いざ永瀬清子の里へ。
 
熊山駅に戻り、改札を出ると大きな案内板。なんと、永瀬清子の詩碑や生家があるではありませんか!
詩碑は会場へ行く途中、生家は会場の近くです。それは存じませんでした。
 
駅近くの吉井川にかかる橋を渡ると、詩碑がありました。昭和23年(1948)作の「熊山橋を渡る」と言う詩の一節が刻まれています。 
 
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さらに歩くこと20分。松木の集落に入り、案内板にしたがって生家を目指すと、生家の直ぐ手前に和気清麻呂の墓がありました。隣の「和気駅」の「和気」は「和気氏」の「和気」だったのですね。
 
さて、生家。
 
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「大永瀬」といわれた素封家の一族で006、かつては立派な家だったことが窺えます。しかし現在は痛みが激しく、「永瀬清子生家保存会」という団体が募金をつのり、維持、修理を行っているそうです。
 
清子はここで生まれ、父親の仕事の都合で幼い頃ここを離れますが、戦争の関係で昭和20年(1945)にここに戻り、同40年までここにいたそうです。以前に赤磐市の永瀬清子の里づくり推進委員会様から、『全集』未収録の光太郎から清子宛書簡4通の情報をいただき、「光太郎遺珠」に掲載しましたが、その4通はここに届いたものです。そう思うと感慨深いものがありました。
 
庭には復元された井戸もありました。
 
水屋の壁には復元に芳志を寄せた方のお名前が。その中には詩人の新川和江氏、日高てる氏のお名前も。
 
清子は女流詩人の草分け的存在でもあり、後の女性詩人たちからも敬愛されていたのがよくわかります。
 
そろそろ「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」の時間なので、会場のくまやまふれあいセンターを目指しました。
 
田圃の畦道をショートカットで歩きます。よくみるとそこここに野ウサギの糞。すごいところです。だいたいコンビニの一軒もありません。それこそSLが黒煙を吐いて走っていても何の違和感もないでしょう。
 
さて、会場に到着。続きは明日書きます。

 
【今日は何の日・光太郎】2月18日

嘉永5年(1852)の今日(旧暦ですが)、浅草で光太郎の父、高村光雲が誕生しました。

黒船来航の前年です。