昨日のブログにて、今年4月2日(火)の第57回連翹忌のご案内を掲載しました。
そもそも「連翹忌」とは何ぞや? 歴史をひもといてみます。
高村光太郎は、昭和31年(1956)4月2日、東京中野の中西利雄のアトリエで亡くなりました。青森県から委嘱された十和田湖畔の裸婦像制作のため、花巻郊外太田村山口の山小屋から上京したのが昭和27年(1952)秋。裸婦像完成後はまた山に帰るつもりでしたが、健康状態がそれを許さず、ごく短期間、山に帰った以外、(そうした際に少し前のブログに書きましたSL・C-61 20号機を利用した可能性があります)結局は中野のアトリエが終の棲家となりました。
葬儀は4月4日、青山斎場に於いて行われました。白屏風の前に置かれた棺の上に、光太郎の甥で写真家・高村規氏撮影の肖像写真と、コップに挿した連翹の花が並べられた簡素な祭壇は、十和田湖畔の裸婦像台座を設計した建築家、谷口吉郎の意匠でした。梅原龍三郎、石井鶴三、尾崎喜八、武者小路実篤、そして草野心平が弔辞を読み、同日、落合火葬場にて荼毘に付されました。

弔辞を読む草野心平
なぜ、連翹の花なのか。生前の光太郎が中西家アトリエの窓の下に咲く連翹を見て、中西夫人に「あの黄色い花は何て言う花なんですか」と問い、夫人が「あれは連翹という花ですよ」と教えたところ、「かわいらしい花ですね」と言ったとのこと。
まさに3月末から4月はじめに咲き始める花です。我が家の庭の連翹(かつての連翹忌で光太郎の親友だった水野葉舟のご子息、元建設大臣の水野清氏が御持参されたものを持ち帰り、庭に挿しておいたら根付きました)は、昨年、3月下旬になっても咲かず、やきもきしていましたが3月31日に咲きました。2日には剪って、まず駒込染井霊園の高村家の墓に供え、残りを連翹忌会場・日比谷松本楼に飾らせていただきました。
さて、翌昭和32年(1957)4月2日、一周忌の法要を中野のアトリエで執り行うこととなりました。草野心平の書いた案内状が現存しています。
連翹忌 御案内
今年もまた連翹の咲く季節が巡つてきました。四月二日は故高村光太郎の一周忌ですが、この日を連翹忌となづけ、今後ひきつづいて高村さんの思ひ出を語りあひたいと存じます。その第一回の会合に是非御出席願ひあげます。
場所 中野区桃園町四八 中西家アトリエ(電話 38 七四〇二)
時 一九五七年四月二日午後五時半
会費 三百円(当日御持参乞ふ)
(高村豊周家から色々御寄付があります)
右 発起人一同
この時から「連翹忌」の名称が使われ始め、これが第一回「連翹忌」ということになりました。記録によれば参加者47名。今にして見れば錚々たるメンバーです。
高村豊周 高村君江 高村規 高村珊子 高村武次 高村美津枝 宮崎春子 宮崎丈二 竹間吾勝 奥平英雄 岡本圭三 小坂圭二 細田藤明 桑原住雄 伊藤信吉 佐藤春夫 草野心平 今泉篤男 関覚二郎 大気寿郎 土井一正 井上達三 海老沢利彦 庫田叕 本郷新 尾崎喜八 尾崎実子 難波田龍起 吉田千代 松下英麿 谷口吉郎 長谷川亮輔 椛澤佳乃子 菊池一雄 黛節子 松方三郎 伊東忠雄 中原綾子 土方定一 知念栄喜 小林梅 北川太一 藤島宇内 中西富江 川口師孝 大柴正彦 沼本効子
席上、詩人の佐藤春夫が黒い手帳を取り出し、次の短歌を披露しました。
高村豊周 高村君江 高村規 高村珊子 高村武次 高村美津枝 宮崎春子 宮崎丈二 竹間吾勝 奥平英雄 岡本圭三 小坂圭二 細田藤明 桑原住雄 伊藤信吉 佐藤春夫 草野心平 今泉篤男 関覚二郎 大気寿郎 土井一正 井上達三 海老沢利彦 庫田叕 本郷新 尾崎喜八 尾崎実子 難波田龍起 吉田千代 松下英麿 谷口吉郎 長谷川亮輔 椛澤佳乃子 菊池一雄 黛節子 松方三郎 伊東忠雄 中原綾子 土方定一 知念栄喜 小林梅 北川太一 藤島宇内 中西富江 川口師孝 大柴正彦 沼本効子
席上、詩人の佐藤春夫が黒い手帳を取り出し、次の短歌を披露しました。
れんげうにかなしみのいろあらたなり きみゆきてよりひととせをへぬ
以後、一ツ橋如水会館、銀座資生堂パーラーなどに会場が変遷しつつ連綿と続き、平成11年(1999)から日比谷松本楼に会場が落ち着き、今日に至っています。日比谷松本楼は、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、名物の氷菓(アイスクリーム)を食べた店です。
一昨年は東日本大震災直後ということもあり、東北方面からの参加が不可能、計画停電等の心配もあり、集まりは中止となりました。しかし、募った参加費のうち一部を東北への義援金として回し、それをもって第55回連翹忌としました。また、特に声かけはありませんでしたが、足が確保できる人は三々五々、駒込染井霊園に墓参に行きました。当方も連翹の花を供えに行きました。
昨年は2年ぶりの集まりとなり、57名が参加。2年ぶりということで、久闊を序する姿が会場のあちこちで見受けられました。
光太郎へ、そして女川光太郎の会事務局長であった故・貝廣氏をはじめとする東日本大震災で亡くなられた方々へ黙禱を捧げ、義援金の報告等が行われました。その後、高村光太郎記念会事務局長・北川太一氏の御挨拶、同理事長の高村規氏の発声による乾杯と続きました。
その後、しばしの歓談の後、一昨年、昨年と、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」の公演をなさった渡辺えり様率いる劇団「おふぃす三○○」の皆様による光太郎詩「旅にやんで」「葱」「月にぬれた手」の朗読の後、恒例のスピーチをお願い致しました。
まずは震災の関係もあり、東北の皆様にそれぞれの地の現状等を語っていただきました。
さらに一昨年に開催された光太郎関連行事のご報告ということで、鎌倉笛ギャラリーの山端通和様には「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」展について、群馬県立土屋文明記念文学館の佐藤浩美様には、企画展「『智恵子抄』という詩集」についてご報告いただき、光太郎・智恵子に関する著書を新たに刊行された(刊行される)方々にも一言いただきました。
また、生前の光太郎を知る、鋳金家で人間国宝の斎藤明様には、光太郎に関する貴重な思い出をご披露いただきました。
今後も、光太郎・智恵子を敬愛する皆様のネットワークの総本山として、連翹忌を続けて参ります。新たな方々の御参加もお待ちしております。皆様方のお力で、光太郎・智恵子を敬愛する人々のネットワークをさらに拡げていただきたいものです。ご参加お申し込み、お待ちしております。
【今日は何の日・光太郎】2月13日
昭和54年(1979)の今日、十和田湖畔の裸婦像台座や光太郎葬儀の祭壇を設計した建築家・谷口吉郎の葬儀が、光太郎と同じ青山斎場で行われました。
昭和54年(1979)の今日、十和田湖畔の裸婦像台座や光太郎葬儀の祭壇を設計した建築家・谷口吉郎の葬儀が、光太郎と同じ青山斎場で行われました。