海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
明治39年(1906)、海外留学のため横浜から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアン船上で詠んだ短歌のうち、最も有名な作であり、光太郎自身も気に入っていたものです。
昨年のブログにも書きましたが、宮城県の女川では、昭和6年(1931)光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基8面の石碑が建てられました。
8面のうち2面は、この短歌を刻んだものでした。この短歌と女川には直接の関わりはありませんが、やはり雄大な海を目にしての感懐ということで、採用されたのだと思います。
しかし、これも以前のブログに書きましたが、東日本大震災のため、光太郎筆跡を利用したメインの碑は倒壊、活字体でこの短歌のみ刻んだ碑は津波に流され行方不明です。
さて、かつて連翹忌にご参加いただいていたあるご婦人からいただいた今年の年賀状に、その方がお持ちの光太郎直筆の短冊を当方に下さる旨、書かれていました。ご自分がお持ちになっているより、当方のような顕彰活動を行っている者が持っていた方がよかろう、とのことでした。
その方のお父様が、光雲の弟子だった彫刻家で、そうした関係からお父様が光太郎からもらったとのこと。
失礼ながら、本当にそんな貴重なものをいただけるのかと半信半疑でいたところ、程なく届きました。右の画像のものです。
書かれているのは問題の短歌です。光太郎、この短歌が気に入っていたため、のちのちまで繰り返し短冊や色紙などに揮毫していまして、そうしたもののうちの一点です。
「海にして」ではなく「うみをみて」となっています。実はこの短歌、雑誌『明星』に発表された明治40年(1907)の段階では「海を観て」となっており、それが後に明治43年(1910)に雑誌『創作』に転載された際に「海にして」と改められました。ということは、それまでの間に書かれたかなり古いものかも知れません。
ただ、光雲の弟子だった元の持ち主は、明治44年(1911)の生まれ。昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』には、まだ入門したばかりと紹介されています。
したがって、以下のケースが考えられます。
・昭和に入ってから明治に書かれた短冊を贈られた
・昭和に入ってから書かれたものだが、なぜか古い形で書かれた
いずれにしても貴重なものであることに変わりなく、まったくありがたい限りです。
下さった方は状態があまり良くないことを恐縮していらっしゃいましたが、ことによると100年前のものですから、経年劣化はある意味当然です。
さて、こういう貴重なものを死蔵するにはしのびないので、今年の連翹忌では会場に展示し、ご来場の皆様のお目にかけます。また、美術館、文学館等での関連する企画展で、もし希望があれば貸し出したいと思っております。お声がけください。
【今日は何の日・光太郎】2月5日
昭和28年(1953)の今日、光太郎書簡集『みちのくの手紙』が中央公論社から刊行されました。