仙台レポートの2回目です。
 
宮城県美術館の企画展「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」。彫刻の数々の後には絵画や忠良が装幀した書籍などが並んでいました。そして、最後に並んでいたのが忠良の蔵書で、光太郎訳の『ロダンの言葉』2冊でした。
 
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どちらも叢文閣から刊行された普及版で、1冊は昭和4年(1929)の版、もう1冊は同12年(1937)の版でした。内容的には同一なのですが、昭和4年の版が表紙が取れてぼろぼろになってしまったので、新たに12年版を購入したとのこと。ぼろぼろになるまで読み込んだということです。実際、開かれていた頁にも線が引かれていました。また、忠良がこの2冊を宮城県美術館に寄贈した際の添え書きも一緒に展示されており、そこには「小生にとつての彫刻出発の一種の原点にもなつた本」と記されていました。
 
こうした後進の彫刻家への影響という点では、一人忠良のみではありませんでした。光太郎の弟・豊周の『定本光太郎回想』(昭和47年=1972 有信堂)に、以下の記述があります。
 
 この頃「ロダンの言葉」を訳しはじめたのは、兄にとっても、僕たちにとっても、今考えると全く画期的な大きな仕事だったと思う。
  雑誌にのった時は読まなかったけれど、本になってからは僕も繰返して愛読した。あの訳には実に苦心していて、ロダンの言葉を訳しながら兄の文体が出来上がっているようなところもあるし、芸術に対する考え方も決って来ているところが見え、また採用した訳語も的確で、「動勢」とか「返相」とか兄の造った言葉で今でも使われているものが沢山ある。そんな意味で、あれは兄には本当に大事な本だった。
 それだけに、他の学校は知らないが、上野の美術学校では、みなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的ではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の生き方の根本で人々の心を動かした。新芸術の洪水で何かを求めながら、もやもやとして掴めなかったものがあの本によって焦点を合わされ、はっきり見えて来て、「ははあ」と肯ずくことが一頁毎にある。ロダンという一人の優れた芸術家の言葉に導かれて、人々は自分の生を考える。そういう点で、あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。
 
 忠良は昭和9年(1934)に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学、同14年(1939)に卒業しています。今回展示された『ロダンの言葉』普及版は昭和4年と12年の版ですから 、この頃買ったものと推定されます。
 
 さらに、企画展ではなく常設の佐藤忠良記念館(県美術館に併設)には、忠良が入手した参考作品ということで、ロダン本人のデッサンも展示されていました。
 
 ロダン・光太郎・忠良、このように芸術の精神が受けつがれ、血脈となっていくのですね。
 
 最後に、今回の企画展図録に載ったノンフィクション作家・澤地久枝さんの文章から。
 
 佐藤さんの彫刻に心安らぐのは、粘土をこねて形を造ってゆくとき、佐藤さんはモデルの生命の源泉を手にくみとっていて、血の通う形ができてゆくからではないのだろうか。
 人も自然も、佐藤さんの作品では呼吸をし、むこうから語りかけてくるみたいだ。自然と私たち人間のいとなみの、ギリギリのところにある真実とでもいうべきもの、佐藤忠良作品に私が心から感動するのは、生命を愛する人の祈りが伝わってくるから。
 
 同じことは血脈を共有するロダンにも、光太郎にも云えるのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】1月28日

大正2年(1913)の今日、智恵子に宛てた長い手紙を書いています。夢の中で智恵子が磔(はりつけ)にされる話などが書かれました。
 
謎めいた、しかし面白い手紙です。いずれ稿を改めて御紹介しようと思います。